エッセイ
哲学科に入った理由は単純だった。高校生の時、廊下で足がつった。同級生は何人もいたけれど誰からも声をかけてもらえなかった。孤独だったのだ。それから40年が過ぎた今も、相変わらず一人だ。だからこうして同じ過ちを犯している。職場で一回り以上年下の同僚から「みすぼらしい」と言われた。独身男性の僕が手作り弁当を見てそう言ったのか、場面としてはそういう所だった。パチンカスだから仕方ないのかな、とも思う。けれど、人間としての誇りはあるつもりなんだけどな。
そういう理由で哲学をはじめてるから、数学が好きで数学に取り組むような感じではなかった。当然のように哲学書を読むにも何がなんだかわからなかった。職場の理事長が、ただひとり僕より年齢が上の人なんだけれど、つい先日「哲学科の人は屁理屈ばかり言うよね」と発言していた。彼からすれば哲学科の学生なんてそんなものなのだろう。僕自身、哲学を説明できないので言われても仕方ないのかな。
例えばカントから始めてみようか。有名な(この表現があっているかどうかも怪しいけれど)著作に『純粋理性批判』というものがある。これを読むことは僕には不可能だったし、だから誰かに説明もできないことは明らか。けれどもどこかから始めないと、何も始まらない。無理でした、という結論を出すためにも読まなければならないし、読んだ上で説明をしなければならない。この作業を毎日続けたとしても、死ぬまでにどれだけ進めるか。つまり、最初から諦めた上で取り組むことになる。岩波文庫から出版されているそれは上中下の三巻仕立て。どうあがいても無理だろう。
では早速『純粋理性批判』に入ってみよう。献辞・ふたつの序文・緒言が最初に来る。ここからそもそも中に入ることができない。いったい何をカントは言おうとしているのか。ヴェルラムのベーコンとは誰か。プロイセン王国とは何か。1787年とはどんな年だったのか。人間の理性とは何か。認識とは何か。理性の自然的本性とはどのような状態か。原則とは何か。経験とは何か。それらを分析することで僕の孤独は解消されるのか。求めるものが違うのではないか。こうして僕は開いた本をすぐに閉じるのだ。
第一部門は「先験的感性論」となっている。当然、何を言っているかわからない。「先験的」は経験に先立つこと、「感性論」は感覚についての一群の文章だろうということを想像することができるくらい。そうなのかどうか、これから先に明らかになるのだろう。さて、認識が対象と関係する方法は「直観」だという。ここまででA(認識)・B(対象)・C(関係)・D(直観)という用語が出てきたことになる。また思惟が手段として求めるところの方法もまたD(直観)であるという。用語としてE(思惟)・F(手段)も加えることとしよう。
D(直観)やA(認識)などの用語はひょっとしたら心理学や哲学などの専門用語かもしれない。だとすれば専門的な知識が必要ということになる。ただ誰もが専門的にそれらの用語を理解しているわけではないし、もしそうだとすれば、専門家でなければ哲学書を読むことはできないことになる。そうではなく、日常の言葉として理解し、日常の言葉を再構築する作業が必要ということになる。これはたとえば、対象がある仕方で心意識を触発する、という言い方にもあてはまる。B(対象)・G(ある仕方)・H(心意識)・I(触発する)はそれぞれ何となくのイメージをもつことが一般にも許されるが、それがどのような意味を持つのかを理解することが、哲学することの意味ではないのかと思う。「が」「で」「を」についても同じことが言える。
J(感性)は次のように定義される。「我々が対象から触発される仕方によってk(表象)を受けとる能力」と。これは図に示すことができそうだ。我々/対象/触発/表象/能力/直観、と。さらに続けて、対象はL(悟性)によって考えられ、悟性からM(概念)が生じる、と述べられる。そしてN(思惟)は直観に関係する、と。
今日、職場で「合い見積もりとるべきじゃないか」と言われた。コピー機の使い方を言うと「そんなみみっちいこと」と言われた。僕にはこのやりとりが問題なのだ。その同僚は対象であり、その言葉は対象であり、それを表象として受け取った僕が思惟する(感情を伴って)ことが問題なのだ。そして彼女にとってこのことはさらさら問題なんかじゃない。...よくわからない。
たとえば2023年のある土曜日。仕事が休みで病院を午前中から二軒行った。歯科と糖尿病治療。歯科治療をすれば食べにくかった口が食べやすくなり、糖尿病治療をすれば体重が減って数値が良くなる薬をもらえる。日常とはそういうものだ。科学の発展は生命に優しい。そこに僕が何を認識しているかは関係ない。該当する病院を選択するというだけの話だ。選択を間違えることもあるかもしれない。けれどそこに哲学的な問いと回答は必要だろうか?必要ではない。
早くも、用語の整理を必要とする。A(認識)・B(対象)・C(関係)・D(直観)・E(思惟)・F(手段)・G(ある仕方)・H(心意識)・I(触発する)・J(感性)・k(表象)・L(悟性)・M(概念)・N(思惟)
そこでO(感覚)が定義される。対象が表象能力に作用した結果生じるものがO(感覚)であり、感覚を介して対象に関係する直観がP(経験的直観)と呼ばれる。Q(現象)は経験的直観がまだ規定されていない状態とされる。...読み替えが必要となる。
「彼は本を見ている」と言う時、それはどのような状態なのだろう。「彼」「本」「見ている」と「は」「を」。「彼」と「本」は対象のような気がする。私が「彼」を感覚するのは「彼」が私の表象能力に作用したからであり、その時、私は「彼」を「彼」と捉える。ただまだ悟性があり、概念がある。私が「彼は本を見ている」と文章にする時、私が「彼」と感覚する以前に「彼」は現象しているが感覚はされていないのだという。...もう一度。
経験的という言葉が用いられる。バレーボールをバーチャルで楽しむこととバレーボールを実際にやることとは違う。水泳をバーチャルで楽しむことと水泳を実際にやることとは違う。目の前にある本を見ることと目の前にある本の映像を見ることとは違う。バレーボールでバーチャルにレシーブすることとバレーボールで実際にレシーブすることとは違う。プールで水をバーチャルで飲むこととプールで水を実際に飲むこととは違う。バーチャルがどれだけ実際に近づけるか。
哲学書を読むということは、僕にとって、こういうことなのだ。何を言おうとしているのかがわからない。焦点をどこに合わせるのかがとても難しい。ここでの出発は「対象が表象能力に作用した結果生じるものがO(感覚)であり、感覚を介して対象に関係する直観がP(経験的直観)と呼ばれる。Q(現象)は経験的直観がまだ規定されていない状態」という文であった。これを1.対象は(私の)表象能力に作用する2.1の結果私は感覚を保有する3.2の感覚を介して(私は)対象と関係する直観を保有する。4.3の直観を経験的直観と呼ぶ5.3がない場合、その感覚は現象と呼ばれる、と読み替えることは可能だろうか。これでもまだ私には理解できないが。...
昭和6年生まれの母と話した。数年前に脳梗塞で倒れ、右足右手の自由が利かない。移動は車いす、トイレに座るのにも介助がいる。ベッドの上で「私はね、一生懸命息をしている」と言う。「負けてたまるか」と言う。逆境にくじけない強さは圧倒的だ。こうしてみんな生きている。母は母なのだ。私ではない誰かとしてそこに存在する。私がいて、母がいて、母が横たわるベッドがある。バーチャルはそこにはない。経験的とはそういうことなのだ。映画を観て感動するのはそこに経験が介在するからだ。経験するという土俵で私は生きている。
現象のR(質料)と名づけられるものがある。それは現象において感覚と対応するところのものだという。これに対して現象の多様な内容を整理するところのものをS(形式)と言われる。感覚は形式ではありえない、という。T(ア・ポステリオリ)とU(ア・プリオリ)が現れる。与えられるものには渡す側と渡される側とがある、という理解でいいのだろうか?とまた考えてしまう。
今日もまたパチンコに行ってきた。今日は勝った。昨日と一昨日の負け分を少しだけ補填することができた。同じことを40年続けている。給料は毎月パチンコで負けてなくなり、そう、パチンコが原因で借金して離婚して、仕事を辞めることになって、自己破産もして最低の人間がここにいる。だからずっと一人きりなのだ。結婚前と結婚後数年はパチンコもほどほどにしていたのに。40年ずっと一緒。人間って何にも変わらないんだな。ギャンブルで人生おかしくなるのは、何が原因なのだろう。...続く。
彼はバス停に背を向けて数キロ先にある山並みと暮れてゆく秋の空をぼんやりと眺めていた。背中では三叉路がすぐそこにある二車線の道路を、街中ではないにも関わらずひっきりなしに車が行きかっていた。騒音というほどのものではなく、それは生活の一部の音のような気がした。静かな住宅街で切れ間なく行きかう車があれば、それはそれでうるさく思うかもしれない。雨を伴っていそうな雲がほんの少し赤味を帯び、山裾にある住宅の灯りに生活を思い浮かべようとするその刹那に、空は暗さを増し、やがて日は暮れた。
V(感覚に属するものをいっさい含んでいない表象)はW(純粋な表象)と呼ばれる。「彼」はW(純粋な表象)であるか?「彼」は視覚で捉えられている。「彼」から何を取り除けばW(純粋な表象)になりうるか。「男性」という性質。「背が高い」という性質。「喉仏が出ている」という性質。「声が低い」という性質。...どれをとってもW(純粋な表象)にはたどりつけない気がする。
「は」は何を意味するのだろうか。時間や空間が影響するだろうか。「彼は」と「彼に」との違いはどこにあるか。「彼は」には第三者が存在しない。「彼に」には第三者が存在する。言い方が違う...か。「彼は」の時、主体は「彼」であり「彼に」の時、主体は「他者」ではないのか。「彼はボールにあたった」と「彼にボールがあたった」という違い。「彼」と「ボール」だけでは成り立たない表現。「彼ボール」では表現できない世界。「彼は宝くじはあたった」という表現にはもどかしさが付属しているのではないか。「彼は宝くじはあたった。でもおみくじは大凶だった」と含意が必須なのではないか。
2023年11月17日(日本時間)日本の岸田文雄首相が中国の習近平国家主席と会談した、というニュースが朝日新聞一面に載っている。日本産水産物の全面禁輸の即時撤廃また戦略的互恵関係の推進の再確認をした、という。...日付、空間時間、国、姓名、組織位置、方法、情報、メディア、優先順位、食物、貿易、地政学的対応...定義づけ以前の知識の不足によりこのニュースから得られるものが少ない。あるとすれば「関係構築」がゼロではない段階にある、というぐらいか。
2023年11月18日の朝日新聞は、宝塚の団員が死亡した問題で運営する阪急側が近く調査委員会を立ち上げ再調査する、との記事を一面に載せている。...おそらく宝塚歌劇団の団員が死亡したのは歌劇団もしくは阪急に何らかの原因があったのではないかと外から求められた...と推測する。感動を売る、存在がなくなる、事象、利益を得るところ、事実、構成員、議論。事情を知らない立場からは、スターになるために競争はあり、言い方を変えれば足の引っ張り合いもあり、強弱により結果はついてくるし、まさか誰も死ぬなんて思ってなかったろうに、ということくらいか。
神様、助けてください。思い通りにいくことがありません。楽をしたいというより、自分の思うように生きたいのです。でも、他者はそうはさせてくれません。ニンジンを時々ぶら下げて、尻の毛までむしりとられる。そんな気分です。向こうは向こうで自分らしく生きようとしており、せめぎあいの中でどちらかが勝ちどちらかが負ける。世の常とはいいながらそれは中々厳しいものです。
困った時の神頼みは、僕の性だ。普段はパチンコしかしないのに、パチンコに負けて生活に困ったら、神様助けてください、と言う。そんな僕でも生きているんだ。困っている人がいたら助けてあげたいと思う。でも、僕には力がない。お金を稼ぐ術を知らないし、人とつながる術を知らない。金もなく、人もいない。どこにも居場所がない。でも死んだほうがましだとは思わない。
V(感覚に属するものをいっさい含んでいない表象)はW(純粋な表象)と呼ばれる、ということについてもう少し見てみよう。バス停は、バスが停まる場所。バスとは何か。バス停とは何か。バスはW(純粋な表象)であるか。バスは道路を走るもの。四角く、複数人数が乗客として乗車しており、ある場所からある場所へ有料無料にて提供されるもの。運転手がついており、エンジンにて動かされるもの。
本日は休日。今日もまたパチンコ屋にて過ごし、昼食後に昼寝をし夕方5時に目が覚める。ジムで90分の水泳。みんな上手に泳ぐなあ、と思いながら自分の練習に精を出す。コースに一人でないと泳げない人、自分のペースで1時間を泳ぎ切る人、様々。楽しく過ごすのが一番と思いながら泳ぐ。2年と数か月たつけれど、理想の泳ぎには程遠い。元々泳げない人だったからそれはそれでいいのだけれど。
「背」と言う時、V(感覚に属するものをいっさい含んでいない表象)は何を意味するだろうか。「背を向けて」と「背中を向けて」には違いがあるだろうか。問題はいくつに分かれるだろう。001.日本語を話す場合。一例として。「背を向けて」には意思が感じられない。「背中を向けて」には意思が感じられる。ところで「意思」と「意志」にも違いがあるだろう。
「背を向けて」を「背」「を」「向け」「て」に分解するとして。「背」は視覚に直結する。「背」は何を意味するのか。「背」とはどのような概念なのか。「背」は日本語だが、「背」は日本語である必要はない。日本語になる前に「背」を私は知っている。言葉で説明できないのは言葉を持っていないからであり...。視覚にて「背」は与えられる。僕の嗅覚では、「背」は与えられない。聴覚でも味覚でも無理のような気がする。触覚ではわかるだろう。...何の話をしているのだろう。問題は「V(感覚に属するものをいっさい含んでいない表象)はどこにあるか」なのに。
もう一度。A(認識が直接に対象と関係するための方法)とB(一切の思惟が手段として求めるところの方法)はC(直観)であるという。日本語としては理解できる、ような気がする。では認識とは何か、ということが問題になる。「これは爪切りである、と私は認識している」あるいは「1+1=2、と私は認識している」というのは日本語として理解できる。ここでは「私は認識している」というのが問題になる、ような気がする。
言語が異なるとどうだろう。「I understand that this is a nail clipper.」は「これは爪切りである、と私は認識している」をインターネットにて検索した英文の結果である。正しいのかどうかはわからないが、おそらくそうなのだろう。この二つの文は等しいのだろうか。英語を話せない身としては、後者の理解はできるが前者の理解と等しいかどうかは甚だ怪しい。
「I」は「私」、「understand」は「認識している」と対応させていくことはできる。では「私」とは誰なのか。日常的には「私は私である」以上の答えはなさそうに思える。実際それ以上の答えは日常の中にはない。この時「私」には身体がまず含まれる。「キーボードを打っている指は、私の指です」と断言することができるし、同様に「キーボードを打っている指は、私あなたの指です」と断言することもできる。「今日は暖かい、と感じている私が存在する」というのもありそうだ。
「深く考えすぎなんだよ」とよく言われる。でも、僕が考えていることなんてこんなことくらいだ。にもかかわらず「深く考えすぎなんだよ」と言われる。つまりは「何も考えてないでしょ、黙って私の意見に従いなさい」と言われているようにしか感じない。みんな、わかっているのだ。生きるってことの意味を。お金や権力がすべてなんだよ、と。魔女裁判を起こしたのは誰なのだろう。真実を求めるって何なのだろう。
「難しく考えすぎなんだよ」とよく言われる。でも、何も難しく考えてなんかいない。「これはコップです」という表現に引っかかっているだけで、それ以上ではない。あなたが見ているコップと私が見ているコップとは同じものですか、と問いたいだけなのだ。そのコップは同じものであり、一つのコップをめぐって、あなたは「これはコップです」と表現し私も「それはコップです」と表現しているにもかかわらず、だ。
母と話をした。九十を越えた母が「まだボケとらんけんね」と言う。確かにぼけてはいない。ほっとする自分がいる。五十八の僕が五十年前の昔話をする。二十歳の時、五十年前の話はできない。三十歳の時、五十年前の話はできない。十年前の話、二十年前の話、三十年前の話そして五十年前の話、どれも同じ過去の話。古いも新しいもなくただ過去の話。昨日の出来事のようでもあり、はるか昔の話でもあり。母さん、今日はありがとう。
「古池や蛙飛び込む水の音」は松尾芭蕉の作品。俳句だな、と思う。日本人だな、と思う。情景が目に浮かぶようだな、と感じる。でも実際に、古池を近頃目にすることはない。子供の頃も多分、古池を古池と認識していた記憶はない。蛙も近頃では滅多に見ない。ましてや飛び込む水の音だなんて。アスファルトや道端にある溝で目にすることはあるだろうか。殆どないような気がする。でも「古池や蛙飛び込む水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は俳句として絶品だと思うのは、なぜだろう。
図書館で借りてきた雑誌(Newton)にフィボナッチ数列が紹介してあった。数学できないくせに本はよく借りていて、対数とか微積分とか、いつもわからないまま返却する。(読破して返却する本もないのだけれど)。で、フィボナッチ数列。例えば3の次は2+3というように、前項二つを足して次の項がわかる(8の次は8+5で13で、13の次は13+8で21)単純な数列。数列は「1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,233,377,610...」となる。これをillustratorで表現しようとして躓く。みんな、頭いいんだなあと、感心する。なぜフィボナッチ数列なんだ。
円に内接する正五角形をillustratorにてようやく描くことができた。何度失敗しただろう。数分で済む作業を1時間以上かかって、完成することができた。まずはこのことを喜ぼう。何度かの失敗は失敗で受け止めよう。誰かよりも早く、なんてことを考えるからいけないんだ、きっと。やりたいことをその時に楽しむこと、それが何より大事なんじゃないか。なんて言ってはみるものの、どうなんだろう。そんな気持ちがなければきっと斜め読みもしない。失敗するのは大概、文を正しく理解していないから。でもなあ、進まないんだよ、それでは。
「菜の花や月は東に日は西に」は与謝蕪村の作品。よさのぶそん、と記憶していたが、よさぶそん、と読むのだろうか。ネット検索ではどちらもありらしく結果されるが、僕の中では定かではない。菜の花だから2月なのだろう。2月の月が東にあって日が西にある時間帯って、夕方でいいのだろうか。日が西というだけで判断するけれど。と、その情景の確かな季節も時間帯も場所も何も明確ではない。でも、俳句なのだ。名句だと思い込んでいる自分がいる。これがただ「菜の花や...」と聞かされているならば、名句と思うだろうか、どうだろう。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」も、俳句だ。多分横顔が有名な正岡子規が作者。正岡子規といえば野球。夏目漱石の友達。なんとなくの、知識。柿食えばからは縁側が想像される。鐘が鳴るからは夕方が思い浮かぶ。法隆寺はどこにあるのだろう、奈良か京都か、おそらく奈良。雑踏の騒がしさはない。時代だろうが、昔も今も賑やかしい場所は喧しい。そんな喧騒はこの俳句のどこにもない。情緒。詩情。風、空気、空、鳥、穏やかな時間、たおやかな空間、そばにはきっと大切な人の存在、安心、淀みのない心持ち、そのようなものが浮かぶ。
『暮しの手帖』という雑誌がある。男性が好んで読むような雑誌ではないかもしれない。記事が静逸で、あくせくしている気持ちを静めてくれる。その分、余裕がないと雑誌を開くこともない。「湯宿さかもと」を紹介している、いや、宿を切り盛りしている菜の花さんに纏わるといったほうが良いかもしれない記事があった。一度読んだかもしれない文章だけれど、生きることの確かさを伝えてくれる言葉の並び。それは訓練して生まれるものなのだろうか。誰かが添削指導して出来上がるものなのだろうか。菜の花さんと記事を書いた人の心持ちを教えてほしい。
『AMERICAN BEAUTY』という映画をDVDにて観た。アカデミー賞作品賞を獲得したらしいが、一風変わった映画という気がする。物語としては、ティーンエージャーの子を持つ年齢のいくつかの夫婦とその子供たちが人生の在り方を模索する映画、ということになるのだろう。それぞれが持つ生きることへの葛藤が描かれていて、秀逸な映画だった。アクションが派手に画面を盛り上げることはないが、それぞれの感情に触れることができる、乱れのない演技が印象的。
「本買えば表紙が匂ふ雪の暮」は一転して、何が俳句なのかわからない。五七五だし、季語もあるし、それだけで俳句のはずなのに。馴染みがないというのはこういう所にあらわれる。作者の大野林火という名前も知らない。名前に弱いのだと思う。本を買うという行為に何があるのか。表紙が匂ふというのはどのような空間での出来事なのか。雪の暮にはどのような情緒が含まれているのか。勉強不足を棚に上げて。
「三位一体」
「月の運行」
『ミッドナイトスワン』を観た。観終わって、美しいと思った。バレエシーンが美しいのだろうと思った。人が死ぬということが美しいのだろうと思った。人が生きることが美しいのだろうと思った。自分の人生が醜いせいなのだろうと思った。まっすぐに生きることが美しいのだろうと思った。日和見で生きている自分が情けないせいだろうと思った。今生きていることを大切にしたいと思った。そうはできない自分がいることがわかっていて、誰かの人生が美しいのだろうと勘違いしているのだろうと思った。演技。
一.累乗の掛け算(A2*A3)は指数の足し算(A(2+3))になるそうです。「Ap*Aq=A(p+q)」は「p=2,q=3」の時、「A5=A*A*A*A*A」。
あ...日本語の五十音の最初。最初に浮かんだのはアメリカ。次に浮かんだのは亜細亜。
『風の谷のナウシカ』を観た。調べると1984年の作品とのこと。徳間書店と博報堂の提携作品となっている。原作・脚本・監督は宮崎駿。プロデューサーは高畑勲。音楽は久石譲。声優としては島本須美 ⋅ 納谷悟朗 ⋅ 松田洋治らが出演している。2024年の今見ても、おもしろいと感じる。それはアニメとしての映像のクオリティの高さが、「あ、今の動き変」などという鑑賞する上で障害となるものたちを感覚の上でまず取り除いている、というのが第一の理由。
風の音の中で胞子が舞う村をユパが歩く。そして家に入り人が死んだであろう描写の後に「また村が一つ死んだ」と呟く。そして虫の声。巨大な虫が群れをなして空を飛んでいる。「行こう、ここもじき腐海に沈む」と言いながらその村を去っていく。巨大産業文明が滅んで1000年との説明文が入り、タイトルと音楽が流れる。作画監督らの名前が紹介される背景で、滅びの時だろうシーンや人が紡いだであろうタペストリーが暗示しているものは何か。一転して空に浮かぶ鮮やかな白をまとう雲。導入として一切の曇りがない。
グライダーに乗り空を舞う、少女だろう姿。緩やかに風をつかみ、砂地だろう場所に降り立つ。森を歩き、胞子を試験官に落とす。胞子の光。歩き、気付く。「オウムの抜け殻」と呟く。それは身長を遥かに超えた巨大な抜け殻。ダンゴムシのような、と表現すればよいのだろうか。ダンゴムシが明確な目と強固な鎧を身に纏ったような。生命の力強さがすでに感じられる。生きるということが、生きることの力強さがそこに表現されている。それがこの映画のテーマなのだ。
『天空の城ラピュタ』を観た。久しぶりだった。相変わらず、面白い。宮崎駿のせいなのかどうか。少年だろうバズーと少女だろうシータが、飛行石をめぐって、元気よく活躍するアニメ。圧倒的な力を欲しがるもの。圧倒的な力に立ち向かおうとするもの。袖で見ていながら弱いものに味方する盗賊。生きる場所は違えど、その生に対する貪欲な欲求、生を肯定する力こそ、本当に必要なものなのだろうか。
ずっと、夢を見ている。超自然的な力を毎日毎夜、信じて疑わない。馬鹿はこうして死んでいくのだろうか。僕は最後、どうやって力尽きるのだろう。梯子を下ろされて、僕は途方に暮れている。まあ、こんなもんか、と。誰のために何かをしてやれているわけでもなく、僕のために誰かがそこにいるわけでもなく。死というものが間近に迫っていながら、それに気付かないふりをしている。僕は明日、どこへ行けばいいのだろう。
ミロコマチコさんの「奄美大島新聞」第24回を読む。八月踊りを始めたらしい。唄もついているよう。さて。ミロコマチコさんのことを僕は知らない。奄美大島についても、何も知らない。八月踊りはおそらく観たことはない。絵も多分知らない。さて。でもいいなと感じる。人が繋がっている文章に魅力を感じるのだろうか。人と繋がろうとするその姿勢をいいなと感じるのだろうか。生に前向きな絵に力をもらっているのだろうか。自分はなれないけれど、いいなと感じるのはなぜだろう。
YouTubeはいい。偏っているけれど、いくらでも時間をつぶすことができる。野球やサッカー、音楽に将棋、思いつくままに見ることができる。それは楽しいのか?魅力的なコンテンツはある。サッカーはプレミアリーグからセリエAまで楽しむことができる。サッカーの何が面白いのだろう。90分間釘付けかといえばそうではない。力強いあるいはごくテクニカルなゴールシーンは惹きつける。何を?僕の心を。だから?
『塔の上のラプンツェル』を観た。原題は『Tangled』。ディズニー映画を58才の独身男性が観るのは、おかしいのかもしれない。勝手にそう思ったりもする。けれど、何きっかけだったか、ディズニーの作品に手を出し始めた。毎日毎週観るわけではないけれど、『崖の上のポニョ』を定期的に観たくなるのと同じ感覚なのかもしれない。新海誠の作品を観るのと同じだろうか。けれど、何が面白いのだろう。
群青は色を表す言葉だろうか。ネットで検索したら上位にはYOASOBIの「群青」という唄が表示されている。そうか。僕の知らない世界では「群青」はそういう世界で使用されているのか。多分、大人になる直前の少年少女の心情に寄り添う唄なのだろう。音楽の感覚がいつしか新しい日本のポップスについていけなくなっている。歌詞にもついていけなくなっている。いや歌詞に関しては相当昔からついていけなくなっていた。むしろ宮沢賢治の「永訣の朝」にある一文に感動する。そう。「あめゆじゆとてちてけんじや」に。
中東と聞いて何を思い浮かべるだろう。石油だろうか、砂漠だろうかそれとも金持ちだろうか。僕の知識はそんな程度でしかない。僕はいったい何を知っているのだろう。中東と聞いてイラクやイランやカタールやUAEやの国名を思い浮かべることもできる。でもそれらがなぜ中東なのだろう。日本は極東。ヨーロッパから近い東、極めて遠い東、その真ん中あたりの東ということなのだろうが。
中東と聞いて何を思い浮かべるだろう。石油だろうか、砂漠だろうかそれとも金持ちだろうか。僕の知識はそんな程度でしかない。僕はいったい何を知っているのだろう。中東と聞いてイラクやイランやカタールやUAEやの国名を思い浮かべることもできる。でもそれらがなぜ中東なのだろう。日本は極東。ヨーロッパから近い東、極めて遠い東、その真ん中あたりの東ということなのだろうが。
俳句を詠むことはできるか。五七五と季語があれば最低ラインの俳句ということになるだろうか。春分の...。だめだ。蕨餅...。やはり。雛流し...。これもか。季語を調べても一向に実感の湧くものがない。どれだけ僕の生活には普通の人々の感覚がないのだろう。木蓮(モクレン)も蒲公英(タンポポ)も薇(ゼンマイ)も、どれにも近しさを感じない。風景に親しんでないことがわかる。無理矢理。--蒲公英が風に揺らめき舞ういのち--どうだろう。
京都を特集している雑誌を図書館から借りる。本屋さんに行って購入するほどではないけれど、京都を特集している雑誌を読むことがままある。なぜそんなに惹かれるのだろうと思う。特別なことはなくて、食べ物や風景とそれらに添えられる言葉の数々が、僕の内部に侵入してやまない。東寺に行ってみたいと思う。四条通を歩いてみたいと思う。昔訪ねたあのホテルの現在を知りたいと思う。鴨川だろうか、あの川にかかっている橋を歩いてみたいと思う。一人旅はしたことがないのだった。
月が出ていた。春分の日の翌日、3月21日の夕刻、空はまだ青く、不透明度80%の月が出ていた。満月よりもやや縮んで、きれいな形の月とは言えないけれど、それは紛れもなく鮮やかな月だった。こんなにもきれいな衛星、それは地球に影響を与え続ける。人間の世の馬鹿々々しさに嫌気がさして、今日にも明日にも逃げ出したいと思い続けている僕に、生命の力強さを教えてくれる月。生きなければならない。生きる意味を見つけなければならない。
太陽がある。太陽を見える。太陽を直視できているのかどうかは知らない。太陽が雲に隠れると、暑さが和らぐ。光がそれから注がれていることがわかる。雨が降ると困るのは洗濯ものくらいだ。移動に面倒くささは感じても、生き死ににかかわるような影響力はない。けれども農業をしている人たちは一喜一憂しているだろう。農業そのものでなく、先物取引している人たちの一部は生き死ににかかわるかもしれない。太陽は偉大だ。きっと太陽がないと僕は凍えて死んでしまう。
宗教といって思い浮かぶのは、日本人なら仏教が最初に来るだろうか。それともキリスト教かイスラム教かというところだろう。ヒンズー教もあるけれど、最初には思い浮かばない。神道は宗教だろうか?日本人には八百万の神々がおり、特定の神は存在しないように思う。天皇家をここで持ち出すのはおこがましい。そのうえ天理教やら金光教やらを持ち出し、浄土宗浄土真宗臨済宗と挙げ始めればきりがない。キリスト教だって、カトリックとプロテスタントというのは何となく耳にするけれど、東方正教会というと馴染みは薄い。
「春 旬の食材」で検索してみた。キャベツ、新玉ねぎ、スナップエンドウ、菜の花に筍などなど、らしい。さらに今度は「キャベツ 旬」で検索してみた。品種改良に伴い、春キャベツ、夏キャベツ、冬キャベツとあるらしい。産地にも多少の違いはあるようなことが書いてあったりする。スーパーに行っても野菜を購入することは稀。すでに切られている野菜がサラダの形で販売されていたりするので、この形で手にすることが多い。キャベツを買って冷蔵庫に入れておいても、すぐにはなくならない。そうして傷ませて捨てることになる。今って本当になんて贅沢な時代なのだろう。
久しく旅をしていない。一人旅をしたことがないので、ひとりぼっちの今の僕には旅に出る勇気がない。なぜ人は旅に出るのだろう。人類が発祥して今まで、人はたくさんの旅をしてきた。新しい場所に根を張った人々もたくさんいるだろう。新しい土地には魅力がある。食べてさえいければ、人は旅先に落ち着くことも厭わない。新しい発見は人にとって相当の価値があるように思える。旅する理由はそれぞれにあるだろう。今度僕はいつ、旅に出るのだろう。
川端康成の『古都』を読んでいる。優しい文章だ。どこまでも透き通っている。千重子という主人公だろう人物の、前に出ないけれど女子らしく溌溂としている雰囲気の出し方がとても好感が持てる。ここまで書いて書くことがない。これまで川端康成を読んだことあったかなと思い、作品を検索してみた。『雪国』は読んだ記憶があった。内容は憶えていない。『伊豆の踊子』もおそらく読んでいる。ノーベル文学賞受賞者の作品には日本語の美しさがあった。日本語の美しさって何だ?
人と話をする時、面白くない時がある。当然逆に、面白い時もある。落語を通してきいたことがないのでわからないけれど、テレビの漫才やコントは通して見ることがあるけれど、そういう面白さではなく、数学や英語を学習しているときのような面白さではなく、映画を観て感じる面白みでもなく、人と話をしているとやっぱり面白さを感じる場面がある。なぜだろう。面白くない場面を考察すればいいのかそれとも面白い場面を考察すればよいのか。
技術的といえばギター。このことは以前にも書いたかもしれない(この表現は今後使用しないようにする)。中学生の時にギターを始めて、最初は松山千春や長渕剛、吉田拓郎などを弾いていた。そこにはCやFといったコードはあっても、それを分解するという発想は全くなかった。それで40年が過ぎたころ、youtubeにていろんな知識を得ることができるようになった。ただ、だからといって急激に上手にはならない。いやほぼほぼ進歩しない。好きだからそれでいいのだけれど、上達する人はなぜ上達するのだろう。僕に集中力および持続力がないのは決定的な違いだとは思うけれど。
技術的といえば水泳。60才直前の男子が健康づくりを始めようとプールに行くようになった。プールが休みの以外はほぼほぼ通っている。一日一時間、二年と七か月。学生の頃平泳ぎはやっていたような記憶はあったけれど、記憶違いで泳げていなかった。息継ぎができないし、体を浮かせることもできなかった。さて。初心者コース中級者コースを受講する人を横目に、ひたすら恥を捨てて練習した。そもそもここでいう恥とは何だ?クロール・平泳ぎ・背泳ぎまではできるようになった、気がする。バタフライがまだ。面白いからそれでいいのだけれど。
家が欲しい。パチンコで散財して家を建てるお金も希望もないのに、家が欲しい。ずっと白馬に乗った王子様がやってくるのを待っている。僕は男だから対象は王女ということになるか。王女様は何処にいるのだろう。ここにはいないし、夢の中にもいない。だったらいったい、王女は何処にいるのだろう。いないに違いない王女を待っている気分は最高だ。昔、黒澤明の映画に何かそんな場面があったような気がする。タイトルも忘れてしまったけれど。
川端康成の『古都』を読み終えた。久しぶりの爽やかな読了感覚。素晴らしい。やっぱりノーベル文学賞を獲る人の文章は素晴らしいのだな。別に大それた展開があるわけではなく、かといって内面を細やかに描写しているようでもなく、いったいこの爽やかさはどこに潜んていたのだろう。登場人物の言葉や行動の一つ一つが特徴的なわけではない。いい人たちばかりの世界で終わっているわけでもない。でも生きることの素晴らしさは感じることができる。小さな悩みを大げさにするわけでもなく。でも、小さな悩みってなんだ?
谷川俊太郎に「生きる」という詩がある。冒頭は「生きているということ/いま生きているということ」というもの。僕にとっての生きるとは何なのだろう。60歳を目前に控えた身でありながら、毎日、逃げることばかり考えている。プーチン大統領の圧倒的当選の記事を見て、そうか、と嘆息し。中日ドラゴンズの連勝の記事を読んで一喜し。明日の仕事のことを考えて行きたくないな、退職届出そうかなと一憂し。それが生きるということであり、生きるということであり、いま生きているということ。
恥ずかしながら。中国について何を知っているだろう。北京が首都、おそらく。上海という都市がある、おそらく。黄河流域に文明が存在した。さて。中国の国土面積はいかほどか。中国の人口はいかほどか。輸出が強いのかどうか。経済を引っ張る産業は何か。どんな唄が流行っているのか。どんな音楽が好まれているのか。どんな小説が書かれているのか。公用語は何なのか。主食は何か。本当に何も知らない。中国人の友達もいない。僕はいったい何者だ。
松山千春がかっこいいと思っていた。僕が中学生の頃だったと思う。「旅立ち」という曲を聞いたのが始まりだったのか、それともテレビ番組でよく流れていたヒット曲「季節の中で」が最初だったかは定かではない。ウィキペディアが詳しいので、ウィキペディアを参考にしながら当時を思い出すという作業になると思っていたら、いや待て、当時ギターを覚えるために楽譜を買っていたことを思い出した。ドレミ楽譜出版社の『松山千春楽譜全集』というものだ。LP『君のために作った歌」『こんな夜は』『歩き続ける時』『空を飛ぶ鳥のように野をかける風のように』の4枚の楽曲が掲載されている。この本を眺めながらどれだけ思い出すことができるだろう。「足寄より」という曲がある。同名の自伝もあったと思う。読んで、松山千春はかっこいいな、と無闇に憧れたものだ。バスケットをしていたとか、喧嘩が強かったとか思春期の僕に魅力的な話がたくさん書いてあった。イメージ通りに松山千春はアーティストとして昇華した。
一番好きな歌は「卒業」ということになるだろうか。おそらく中学生の時に初めて聴いて、その印象が強烈なのかもしれない。'こみあげる/淋しさに/問いかけたのは/足ばやに過ぎた/時の流れ'という歌いだしから始まりそしてサビの部分では次のように歌いあげる。'だけど今/夢がある/ささやかな夢だけど/あしたがあるから'もう何年も聴いていないはずのメロディが鮮明に浮かぶ。記憶は素晴らしい。いやな記憶もたくさんあるけれど心地よい記憶も同じくらいたくさんある。毎日を生きる糧となる。そして歌声もおそらく同じように記憶の中で蘇っている。
歌が上手い歌手は誰か。みんな上手だとは思う。その中で松山千春はきっと上位に位置する。玉置浩二も拮抗している。でも歌が上手いとはどういうことか。カラオケで点数高く取れる人はきっと上手なのだろうと思う。松山千春は満点取れるだろうか。きっと取れない気がするのは僕だけではないだろう。ギターを弾いていた。でも全然上手くならなかった。才能と努力にはいつも悩まされる。きっと上達する人は最初から取り掛かりやすいのだ。泳げる人は楽に泳ぐのに泳げない人はなかなか難しい。努力はできることから始まる。泳げないのに水泳の努力をするというのはハードルが高い。
努力と才能といえば、学業にも同じことが言える。授業を聞くだけでテストに臨むことができる人がいれば、徹夜で勉強して臨む人もいる。結果前者の点数が良いとすれば。できる人はできるしできない人はできない。ただ、そうありたいと願うならば、努力をする自由はある。努力して良い点数を取ることは可能だ。歌をなぜ聴くのか。心地よいから。映画をなぜ見るのか。面白いから。行動するのには意味があるのか。生きてる価値はどこにあるのか。毎日を送っていく中で考えてばかりいる問題。そこにこたえがあるのかどうかわからない。
'生きることが/つらいとか/苦しいだとか/いう前に/野に育つ/花ならば/力の限り/生きてやれ'これは「大空と大地の中で」の一節。歌の力は言葉の力でもある。音楽の聴き方は様々で、僕は洋楽を聴くとき歌詞を気にしないことが多い。だから生きることに否定的な歌詞なのかどうかに関わらずメロディやリズムが心地よければそれで良しとする。松山千春を聴くと歌詞の大切さに思いは馳せる。
ピカソを画像検索した。たくさんの画像がモニター上に現れる。二枚三枚の画像をクリックし、最初に印象に残ったのが「人生」という作品。ピカソといえばデフォルメかと思いきや、「人生」は違う。この作品の良し悪しもあるのだろうが、僕にはわからない。そもそも196.5cm*129.2cmの作品をパソコンのモニター上で見ているのだ。迫力というか臨場感というか筆致の精密さの捉え方というか、評価なんてできないだろう。
さて。ピカソの「人生」という作品をご存じだろうか。僕は今回検索するまで、おそらく知らなかった。画集を見たことはあったので、その存在について知っていた可能性もある。というのも、今回の検索結果に対してそんなに驚かなかったからだ。部屋に四人の人がいる。成人の男性と女性。女性は服を着ておらず、下着をつけているだけの上半身は裸の男性に寄りかかっている。もう一人の女性は服をしっかりと着用しており、赤ん坊をその胸に両腕で抱きかかえている。四人の向こう側の壁には絵が2枚配置されている。うずくまっている人が一人の絵と、うずくまっている人を抱きかかえるようにしている人がいる二人の絵と。
口は閉ざされているので、言葉は発されていない。しかし男性の指は動きを伴っており、それは会話の途中であろうことが予想される。男性と衣服を着た女性の視線は交わっており、そこに何らかの意思の疎通があることが窺える。全裸の女性はやや下を向きながら二人のやり取りをぼんやりと聴いているように見える。赤ん坊は目を閉じ口を閉じ穏やかな眠りにあることが予想される。現実の刺々しいやり取りは赤ん坊にも全裸の女性にも関係がない。これは何を主題としているのだろう。
青の時代、という時期がピカソにはあったらしい。「人生」はそれらの作品のうちの一つ。苦悩が訴えられている。いや苦悩ではない。主張が訴えられている。物語を作ることができるかもしれない。衣服を来た女性は裸の男性の母親。全裸の女性はその男性の愛人。赤ん坊は男性の子供ではあるが全裸の女性の子供ではない。母親はこの子を大切に育てるように男性に言う。けれども男性は聞く耳を持っていない。全裸の女性は二人の会話に加わることはなく、ただ時が過ぎるのを待っている。
洋楽を聴く。coldplayはお気に入りのバンドの一つ。繰り返し聞きたくなる何かがある。coldplayの場合は何だろう。リズムなのかメロディなのか、声なのか、よくわからない。少なくとも言葉ではなかった。なぜなら英語の歌詞を理解していないから。そう思って、coldplayの「ink」を改めて聴きながら歌詞を読む。わかるような英単語が並んでいる。和訳を読んでみる。そうか、こんな歌詞だったのかと思う。印象的な一節は次のようなもの。「Got a tattoo and the pain’s alright/Just want a way of keeping you inside」。
雑誌『暮しの手帖』をやめられない。一冊読み切ることは一度もないし、掲載されるレシピを活用したことも一度もない。生活の知恵についてもこれが役立った、と感じたことは一度もない。にもかかわらず、ほぼ毎号購入している。安くはない値段だが、と思う。今もその記事を読みかけてこの文章を作成している。引っかかりがあったのはおそらく、出会いという文字。そのひょんなことからの出会いが20年という月日を重ねているという事実。街に知り合いの一人もいない身だから、いつもないものねだりをしているのだろうか。
山歩きを推奨する雑誌を見る。何に惹かれるのだろうと思う。たとえばネパールの山歩き。山を歩くためにはそこに移動しなければならない。移動するために休日が必要となる。日本からヒマラヤまでの交通手段なんてさらさら浮かばない。時間も想像つかないし移動方法も想像できないし、何よりどれだけのお金がかかるのかもわからない。お金についていえば、僕がパチンコで散財する金額で日本の近場の山歩きは可能となるだろう、ということくらいか。
タンパク質というのを聞く。アミノ酸というのも聞く。アミノ酸が結合したものがタンパク質らしい。アミノ酸は体内で十分に生成されるものを非必須アミノ酸といい、そうでないものを必須アミノ酸というらしい。タンパク質ってなんだ?同様に炭水化物もわからない。食料として肉を食べるし穀類も食べる。生命は循環している。人間の体はなぜ今の形なのか。50年前に生まれた人間の体型と2024年に20歳になる人間の体型は違う。天地がひっくり返るほどではないけれど。それでも数十年で生物は目に見えて変化する。
過去は時間的に過ぎ去ったもの。未来は時間的にまだ到来していないもの。現在は今あるということ。一秒前10分前一年前と遡れる時間。一秒後10分後一年後と創造される時間。今、というこの一瞬。子供の頃に食べた味噌汁。死の直前に食べるかもしれない味噌汁。今、食べている味噌汁。僕は一つの味噌汁という語しか使用していないけれど、この味噌汁は現実には異なる味噌汁のはず。その時々の味噌汁がきっとあるはず。いま僕が使用している味噌汁は、今の味噌汁とも異なるのだろうか。おそらく、異なる。
安らぐ場所はありますか。僕の場合、パチンコ屋に行って散財しているときが一番安らぐのかな。勝っているといつまた負けるかもしれないと思い、勝った分がすべて吞まれると思いすぐにパチンコ屋を後にする。ずっと、そうだった。けれどもその帰り道、勝っていても負けていても、複数人で歩いている人たちを見ると悲しくなる。涙が出そうになる。一人で歩いている人を見ても、帰ったらきっと誰かが待っているんだろうな、と想像してジェラシーに火がともる。僕はいったいどうすればいいんだろう。僕はいったい何をしたいんだろう。
人はいつ住居を持つようになったのだろう。竪穴住居が出現する時代、人は何を思っていたのだろう。人が生物である限り、食料の確保は何よりも重要だったろう。食料を確保するために様々な知恵をどれだけ働かせただろう。石器を作成したのもそのためだっただろう。獲物を獲得し、腹におさめ、余り物を誰かに分け与えただろう。女子は男子に靡いたことだろう。男子は女子の視線を獲得するために、力いっぱい能力の限界に挑戦しただろう。能力には幅があり、力のないものは誰にも相手にされなかっただろう。
学問ってどれだけあるのだろう。たとえば数学。検索して何となくこれかな、というサイトにたどり着く。そのサイトでは教養数学(統計学・微積分学・線形代数学)、数学基礎(論理学・集合論・位相空間論)などなど、さらに解析学、代数学、幾何学などが紹介されさらに多くの分野がそれぞれに含まれている。確率微分方程式論、関数解析学、組合せ論、表現論、数論幾何学、代数幾何学、ルベーグ積分論、ホモロジー代数学...etc。みんな、どれだけ頭がいいんだ。
「can't take my eyes off you」はいつの曲なのだろう。何十回となく耳にしている。Lauryn Hillも唄っている。どこで聴いてもどのアレンジを聴いても、いいな、と思う。それはなぜだろう。歌詞の意味なんて知らないから多分メロディがいいのだろうか、リズムがいいのだろうか、音楽には他にどんな要素があるのだ。ドラムは何を刺激する。ベースは何を掴む。キーボードは何を思い出させる。空気は明るくなる。気持ちが弾む。いい曲はなぜにいい曲なのか。
山を歩いたのはいつのことだろう。山歩きをする人の精神状態ってどんなだろう。休日朝早く目覚めてyoutubeを一時間ほど見て疲れたらコンビニに朝食を買い出しに行って、十時になるころに近くのパチンコ屋へ行って疲れたらスーパーで遅めの昼食を買って家について、昼食を食べたら横になって、眠って、夜に入るころにプールに泳ぎに行って、コンビニで夕食を買って、食べて、ギターを弾いて眠る僕のような人間には、山歩きをする人の精神状態が理解できない。ただし、憧憬をもって、いいなと思うのだ。
『万葉集』はさすがに聞いたことがある。しかし、歌の一つも思い出せない。学校で習いはしただろうに。やはり検索。すると一番上には「万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集です。 全20巻からなり、約4500首の歌が収められています。 作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠み込まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及びます。」とあります。4500の内の一つも思い出せない。もう一度検索。「さ檜の隈/檜隈川の/瀬を早み/君が手取らば/言寄せむかも」。
ジル・ドゥルーズという人がいる。『差異について』という著作がある。平井啓之訳を読む。「差異」。さて。訳書ということはドゥルーズは日本語でその本を書いていないということになる。日本語として「差異」を考える時、その言わんとするところはわかるような気がする。しかし原語の「差異」の言わんとするところは、当然、わからない。表紙には「Difference et Differenciation」とある。「e」は「é」と表記されている。ここからして、ふたつの言語の理解が困難であることを示している。
「ベルクソンの哲学」という言い方が『差異について』に出てくる。ドゥルーズとベルクソン。「哲学」という言葉も現われる。ここで。「あらわれる」とキーボード入力すると候補語が表示される。「あらわれる」はPCにとって、いくつかの語に結びつく。同様に「さい」の場合もいくつかの候補語が表示される。「さい」そのものだけでなく、「最近」という語も混じっている。「さいきん」の場合は「細菌」も候補語に現われる。「サイキン」の場合は独立して「さいきん」なのだろう。結びつきようがない場合がある。
マティスという画家がいる。検索。本当に僕は何も知らないのだな。閲覧したサイトはここ。1905年の作品が紹介されているので、その前後に活動していたということだろう。「帽子の女」という作品は何を表現しているのか。いや、僕はどんな感覚を持つことになったか。まっすぐに何かを捉えている視線。引き締まった唇。帽子をはじめとして華美に着飾っている女性。何もない背景。
マティスの絵のイメージは「ダンス(Ⅱ)」にある。1910年の作品。5人の全裸の人が手を繋いで輪になり、踊っている場面。色は緑と青と茶。緑は地面を青は空を、茶は人々の肌に使用されている。ただそれだけ。見ると一人だけ踊っているようには見えない(おそらく)女性がいる。その左手に伸ばすように体全体をしなやかに動かしている(ように見えるおそらく)男性がいる。仲間と踊りを楽しんでいるというより、神(見えないけれど自分たちの生に力を与えてくれると信じているもの)にその踊りを捧げているのではないか。
ドゥルーズは言う。「事物の相互の本性の差異を確定すること」が問題であると。「事物」とドゥルーズが言う時、それは何を指しているのか。いつも繰り返すが、語の定義は容易ではない。学生時代、哲学を専攻しているにも関わらず、授業はどれも理解できなかった。いや、聴講している分にはわかったふりをすることができるのだが、いざレポートを提出となると自分の言葉で文章化することになる。けれども、文章化する時点ですでに教授には伝わらない内容になっている。ここでも同様に「事物」にこだわる時、僕の理解を超えようとしている。
ドゥルーズは言う。「事物を事物以外の他のものに還元することなしに説明し」と。「事物」が、日常的には例えば目前にある、「時計」であるとしよう。いま僕の眼前にある「時計」は机上に置かれており、その大きさは10cmほどの手のひらサイズのものである。なぜそれを「時計」と僕が認識しているのかは、いままさに秒針が動いているからであり、短針長針ともに気付けば変化しているからであり、短針が「5」と「6」の間にあるとき、僕の家の近所で灯りがつくということを教えてくれるから。あるいは辞書を見れば「時計」についての説明がなされているからだ。
「差異」とは何か。「存在論」とは何か。「方法論」とは何か。ジル・ドゥルーズとは誰か。僕の横に「本」がある。僕の傍に「ギター」がある。「本」だと僕が認識している事物は「本」以外にはありえない。その「本」は僕の手によって開かれる。そこには文字があり、あるいは写真があるかもしれない。その「本」は僕に考えさせる。そこに「死」という文字が書かれていれば僕は「死」について考える。そこに「花の写真」があれば僕は「花の写真」によってある考えを持たされる。「きれいだ」とか「この花の名前は何だろう」とか。
「本性」とは何か。「存在」論とは何か。「方法」論とは何か。手元にある「本」は僕が「本」として認識しているに過ぎない。もちろんおそらく、他の誰かが手にとっても「本」と認識することに疑いはない。たとえそれが僕が「読む」ことができない言語で記述されているとしても、僕はそれを「本」として認識するだろう。僕に知的好奇心があれば、その「本」に記述されている内容について、何が書かれているか、を探ろうとするかもしれない。「本」が「book」と一致することにいつか気付くかもしれない。しかし「本」は「book」なのか。
「快楽」とは何か。僕は「快楽」について理解しているつもりだ。けれど「お酒を飲むこと」は僕にとって「快楽」だろうか。「パチンコをすること」は「快楽」だろうか。セックスをすること、麻薬に手を出すこと、SMプレイに興じること、万馬券をあてること、シンナーを吸うこと、どれも「快楽」そうだけれど、したことがないのにその経験は僕に「快楽」をもたらした、と断言することもできない。「快楽」ではなく「快不快」の「快」かどうかというのはもう少し考えることができそうだ。
ブラームスという音楽家がいる。名前だけを知っている。検索開始。ちなみにバックで「serenade #1 in D」(itunes表示)がかかっている。「ブラームス」単体で検索してみる。wikipediaが最上位に表示される。仕方ない。1833年に生まれている。1833年といえば日本は江戸時代後期にあたるだろうか。検索してみる。「1833 日本」にて。天保年間、歌川広重が「東海道五十三次」を描いているとのこと。ところでブラームス、ドイツで生まれたとのこと。その頃ドイツという国はあったのか。ドイツについて僕は何も知らない。
先日職場に生まれて3か月ほどの子を抱えて母親がやってきた。独り身の僕に抱かしてくれるという。まだ泣かない時期なのか、僕の腕の中で眠った。見ているだけでうれしい気持ちになるのはなぜだろう。別の日にはすでに一人歩きできるほどの子を連れた父親がやってきた。腕を伸ばしても近づこうとしない。こちらが近づこうとすると、大きな声を出して泣いて、父親に思いきりその腕を伸ばしている。赤ん坊のいる世界はどうしてこうも、喜びに満ちているのだろう。
両親がいた。父親は数年前死んだ。パチンコで借金して自己破産するような僕を(だから僕自身で家族から疎遠になっていた)、父も母もただ、見守っていた。母は今、右半身が不自由で、車いすの生活を送っている。一緒に住んでいる姉の苦労は相当なものだろうと思いつつも、僕自身は何もしてやることができない。父も認知症ではなかったし、母も認知症ではない。会話はそれでも減っただろうか。少し前、右半身が不自由になってから後も、昔話を1時間もできていた母も、体力はなくなってきているのだろう。
フレンチトーストという響きに憧れるのは僕だけだろうか。それは他人に対していつも憧れている僕、劣等感を抱いている僕だから感じる感覚なのだろうか。中島みゆきに「狼になりたい」という曲がある。何年前だろう。『親愛なる者へ』というアルバムに収録されている。1979年のアルバム。ずいぶん昔だな。でも全然過去の曲、過去のアルバムではないけれど。その中に「みんないいことしてやがんのにな/いいことしてやがんのにな/ビールはまだか」という一節がある。みんな、いいことしてやがんのにな。
藤井聡太名人と豊島将之九段の名人戦が行われている。名人3勝1敗で迎えた第5局。羽生さんが圧倒的強さを見せつけていた時代にしのぎを削っていた棋士たちの名前を聞くことが少なくなっていた時期に新しい時代の人として豊島九段の名前をよく聞いていた。しかしその次の世代がすでに準備していた。その先頭にいたのが藤井聡太名人だった。がんばれ豊島九段と言いたい。けれども藤井聡太名人にもがんばれと声をかけたい。しのぎを削れるって、いいよな。
三線という楽器がある。沖縄の楽器という印象がある。三味線とは違うようだ。何が違うのだろう。ウクレレとギターとは何が違うのだろう。弦の数?好きな音楽ジャンルはと問われてすぐに思いつくのはロック。ポップスではないし、ジャズでもない。でも何がロックかといえば、わからない。ミスターチルドレンってどういうジャンルに分けられるのだろう。氷室京介の所属していたボウイはどうだろう。氷室京介はロックのような気はするけれど。いや、三線について。
いまは検索の時代で。ある曲のコードを知りたくて検索するといくつかのサイトに辿り着く。そこには聞いたことのないアーティストの名前がずらりとある。その数だけそこには歌詞があり、メロディがあり、リズムがある。日本て豊かなんだな、と思う。これだけ自由に、あるいは制限されているかもしれないけれど、たくさんの人たちが目に触れる形で音楽をやれていることに感動する。音楽はその一部で、僕が検索するのは音楽の中でもほんの一部。音楽以外の分野で活動している人々はたくさんいるわけで。
結婚していた。パチンコに明け暮れて、離婚した。仕事は真面目にやっていた。借金を作り、生活費を入れなくなっていた。彼女はそういう人には耐えられなかった。それは彼女に限らないだろう。何の反省もなく今日も生きている。やっぱり生きてる価値ないよな。生きてる価値のない生きてる価値のない人生がここにここにあるよ。そう唄って、今日も漠然と一日が過ぎていく。何かやろうとしても、すぐに眠くなる。僕の本当にしたいことは何なのだろう。ご飯を食べて、パチンコして、youtubeを観て、オナニーして寝る。人間失格って知ってる?
ジムでプールに通っている。もうすぐ3年になる。まったく泳げなかった僕が、25メートルなんとか泳げるようになった。クロールから始まり、背泳ぎ、平泳ぎまで辿り着いた。バタフライに挑戦中だが、なかなか難しい。ドルフィンキックと組み合わせて練習しているけれど、息継ぎに至らない。どこを改善すればよいのか動画で勉強するけれども、うまくいかない。元々お腹に力を入れるとか腹圧とか、浮くことだとか、足りないことが多すぎる。まあ、地道にやるしかないけれど。
今年は僕の59才になる年。59になっても誰かを見れば「人間が違うな」と思ってしまう。たとえば100万円ちょっとで世界中を旅する人の話を聞くとそれだけで「人間が違うな」と。たとえばプールで20分間クロールで泳いでいる人を見ると「人間が違うな」と。たとえば将棋の対局で簡単に勝ってしまう人を見ると「人間が違うな」と。その人たちがどういう人たちなのか僕は知らない。クロールで20分間泳ぐ人の形はとても褒められたものではない。でも、すごいな、と思ってしまうのだ。
お客さんという人がいない。職場ではどうかな。自信はあるけれど、決して完璧ではない。自分の力で獲得してみたいとは思う。でも、何をしても中途半端。夢を見続けて40年。夢が近づいたかな、という時もあったかもしれない。でも、手放したのは僕自身。過去を振り返っているばかりではないつもり。でも、夢への想いに努力が伴わない。努力のしようがないほどに才能がないみたい。そして今日も「あんな人たちが勝つんだ」と愚痴って終わり。なんて悲しい人生なんだ。
戦争は嫌いだ。思い通りにいかない世界も嫌いだ。自分が認められる社会であってほしい、その思いを実現させてくれるのが戦争だったりするのだろうか。殺されかけて、殺してはいけないのか。自分の命は何よりも大切なのか。大切な人とは誰なのか。愛する妻(夫)か愛する子か。愛する者を守るために戦っては駄目なのか。争いの挙句、その果てにある悲しみをどう処理すればよいのか。戦いを放棄することもできるだろう。けれども戦いに正面向くこともできるだろう。
彼らには敵わない。願いも叶わない。彼女の背丈に僕は似合わない。甘くないイチゴを手に取り、口に入れたらグッバイ。ドンマイ使えない英語の授業にあくびする僕らは青二才。才能豊かに声量豊かに歌い上げる君は今はもうここにはいない。憧れた影はないものねだりの光のあとさき。横浜はこれからはどんな土地に変わっていくだろう。東京の空の下、夢の国を追いかけて辿り着けない。君は来ない。
将棋の本を読んでいる。将棋が進歩しないという話なのだけれど、玉がどこに逃げるか、という問題。相手の持ち駒が横に動くならば斜めへ。相手の持ち駒が斜めに動くならば横へ。簡単だけれど、そうかと思う。その盤面を見て、考えて、解説を読んで一致した時、安心する。当たっていた、と。でもここで終わり。安心して、次の行動に移って、将棋から離れる。思考の短絡化。何手先を読むこともできない。レベルで違うけれど、一手一手は結果へとつながっている。
「尾先、谷口、宮の前に家を建てない」という言葉があるらしい。自然災害に逢うところ、聖域を侵すところに家を建てないということらしい。家を建てる、か。職場の40歳前後の人たちが家を建てている。みんな凄いな、と単純に思う。人間の出来が違うんだな、と率直に思う。ずっと昔からそうだった。一時期勘違いしたこともあるけれど、結局のところそうなんだ、と考えてしまう。そうかなあ、とも思う。負け犬の遠吠えってこんな事を言うのかな。
点がある。線がある。線の左端を0としよう。線の右端を10としよう。同じ長さで10の線分に切り分けることができる。そうすると、0の次は1になりその次は2になる。以下3,4,5,6,7,8,9となり最後線の右端が10ということになる。数直線って、こんなんだったっけ。同様に0から1の線分を切り取り、分けることができる。0から10とすることができるし、元の線分に戻せば、1.1,1.2...ということになる。この作業は延々と繰り返すことができる。けれど当然、ノートに書いた数直線上に延々と書き記すことは日常的には無理がある。
メソポタミア文明について何を知っているだろう。ほぼ何も知らない。チグリス川とユーフラテス川付近に紀元前に現われた文明だろう、というくらいか。紀元前の世界を想像することは難しい。そもそも人類がどこからきて何処へ行くのか。それすらも僕は知らない。戦争がどうだ、温暖化がどうだ、エネルギー資源がどうだという話はよく聞く。けれどもメソポタミア文明では人間は何を考えていたのだろう。宴もあったろう。宴はどのようにして可能か。
腕時計をつけたことがない。いや、大学入学時には誰かからプレゼントされたかもしれない。でもほぼ、記憶にない。もしプレゼントされていれば大変失礼な話だ。その腕時計について書かれた文章の中で、青系統の色の名前について書いてあった。何種類もあるという。さて、検索。和色大辞典というサイトがヒットする。白藍、水色、瓶覗、秘色色、空色、勿忘草色、青藤色、白群、あさはなだ、...windowsで変換できない漢字に溢れている。明日、覚えてるかな。きっと覚えていない。
小川糸さんの文章を読んだ。雑誌『旅行読売』の中にあった。図書館で定期的に借りる旅雑誌のひとつなのだが、大概写真だけに満足して文章まで読むことはまあまあ、ない。そんな中での小川糸さんの文章。名前をきくのもはじめて、という人。きれいな文章だな、と思う。エッセイの醍醐味がつまっている。それはきっと、自分の好きなことを純粋に言葉に置き換える作業。誰かが自分の好きなことを批評するのをものともしない、逞しさ。きっと伝えたい人がそこにはいて、けれども伝えたい人にだけ伝わるようにという意識はなく。
旅雑誌のレイアウトはよくできている。旅行をテーマにしているから、そこに行きたくなるレイアウトが考えられるのだろう。文章の最後に東尋坊の名前が挙がり、あ高校の修学旅行で行ったことのある所だ、と一人感慨にふけることになる。そう、そのページには何が載せられているのだろう。写真と文字、地図、行程表。何が旅行に一番誘うのだろう。写真か。歴史を感じさせる建物、自然の風景、食べ物。写真のサイズはいろいろ使用されている。見出しも、そそる。文章を読みたくさせる。
横浜流星という俳優がクリスチャンディオールを纏っている。1ページに1枚の写真。ファッションに興味を持つことなく還暦を迎えようとしている僕にとってそれらの意味は何処にあるだろう。街中でそんな格好している人をみたことがない、というのが第一印象。次に横浜流星の端正な顔立ちに目が行く。最後に細身を包むジャケットに、パンツに、そしてバッグに目移りする。文字にも意味不明な用語。金額だけは価値がわかる。とても僕には手が出ない値札感。こういう雑誌を買う人がいるんだな。
PLADAというブランドがある、らしい。それをブランドと呼んでいいのかどうかも僕にはわからない。共地のシャツ&タイという言葉で、知っている人は何を想像するのだろう。共同クリエイティブディレクターという言葉は何を指示しているのだろう。そこに書かれているメゾンという言葉は何を意味しているのだろう。ミニマルスタイルという言葉で、何か服の一領域が設定されているのだろうか。ファッションにおけるアンサンブルという言葉はどういう組合せなのだろう。貧相な知の持ち主はいまもここで言葉を紡いでいる。
岩手県に夏油温泉という所があるらしい。秋田県に乳頭温泉郷という所があるらしい。秋田県にはさらに蒸ノ湯温泉があるらしい。宮城県には鎌先温泉という所があるらしい。温泉に久しぶりに入っていない。一人で行くものではないと決めつけている。行ったら行ったで楽しめるはずなのに、行かない。温泉の何がいいのだろう。温泉につかるのはほんの30分程度。それでも旅雑誌に温泉情報は満載。欠かすことのできない記事のはず。ユタッとしたいのだ、誰しもが。
ルイ・ヴィトンのバッグの値段を知る。478,500-。632,500-。目玉が飛び出るというのはこういう時のための表現なのだろうか。驚きを隠せない。僕が普段使っているのは、何千円単位のバッグ。それに比べたら、と考える。お金の価値はそれぞれだけれど、僕にとってのそのバッグの値段はとても手が出る範囲のものではない。こういう高級な品々を購入できる人たちの金銭感覚はどのようなものだろう。でも、パチンコで1時間で15,000-失くす僕の金銭感覚もどうかと思う。
石川県立図書館の写真を見た。円形劇場のような壮大な図書館。閲覧席も多々あり、そのディスプレイ方法に圧倒される。本は好きだが、何せ読む速度が遅い。なので読んだ冊数はそれほど多くはない。それほど多く、という表現にも誇大表現が加えられている。高校生の頃、太宰治をよく読んだ。『人間失格』や『走れメロス』など、というところか。毎日いくばくかのページをめくっているけれど、めくってはすぐに忘れていく。読書なんてそんなものだ。でもきっと、それていいのだ。
的確な現状分析はどのようにして成し遂げられるか。いろんな人がいる。例えば福祉サービス。一昔前は、権利の実現が謳われていた。しかしいつしかそれはサービスという呼び方をされるようになった。実際問題、人間の権利についての議論はどこでなされているか。経営者はその事業の継続を望み、それに応じた人員を配置する。そこでは権利問題よりは制度の実現が当然優先される。制度の実現に向けた労働がなければ、事業は立ちいかない。そこでは権利問題は二の次にされざるを得ない。
「万葉集」で検索する。最初の結果をそのまま引用します。「万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集です。 全20巻からなり、約4500首の歌が収められています。 作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠み込まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及びます。」とのこと。7世紀後半。古い。けれど歌そのものは現代と何ら変わらない。恋をしていれば、逢えない時はとっても淋しいのだ。会いたいという募る想いは恋心をさらに刺激する。男はいつもなよなよしている。女性はどうだ?
ロシアの地図を眺める。周辺のベラルーシやモンゴル、日本も含まれている地図。聞いたことのある地名を探すよりも先に、その広さに驚く。どれだけの資源が眠っているのだろう。ロシアは地政学的にどのような位置にあるのだろう。そんなことが頭の隅をかすめ飛ぶと同時に、その色に驚く。日本はほぼ茶色。でもそこそこの田圃は生きているのだろう。ロシアはきれいに東半分が緑、西半分は茶色に塗られている。モスクワはかなり西に寄った地点にあることがわかる。
政治は遠い課題だ。何をしているのかさっぱりわからない。ただ、40年前と比べると、断水も停電もほぼ経験しないレベルにあるので、生活にとっての政治は成功していると考えていいのだろう。だから自民党は強いのだろうし、昔「左」と呼ばれていた勢力もすっかり力を失ったように見える。それでいいのか、ではどこがダメなのだ?通常国会が閉会したという。ニュースを見ない身としては、だからなんだ、という気もする。この姿勢が日本を悪くしているのか良くしているのか、僕にはわからない。
多民族国家について思いを馳せる。日本に生まれ、日本に育った僕は多民族国家の何かを知らない。その昔、日本にも蝦夷と呼ばれる地域があったという。アイヌ民族についてはほぼ何も知らない。沖縄はどうだろう。日本に復帰する以前と復帰して以降、何かが変わったのだろうか。そもそも民族とは何か。検索にかけたいところだ。日本はどこに行っても日本語が通じる。日本人というのは一つの民族なのだろうか。
努力する力も才能の一つ。一流と呼ばれる人たちの話をYouTubeにて聞く機会が増えた。野球でいえばひと昔前のイチローや落合の話。まことしやかに、その練習量が半端なかったと語る元同僚たちの声がある。最初の入り口で(この表現は変だろうか)、野球が他の選手よりも上手だったりするのはありうる話。だからこそ、野球を続けることができる(同じ練習量でもレギュラーになれない人のモチベーションはそうはあがらない)。
三角形の相似の条件は次のいずれかの条件を満たす必要があります。「1.三辺の比がすべて等しい」「2.2辺の比と、その2辺にはさまれる角が等しい」「3.2角が等しい」。さて。ここでいうところの三角形は直角三角形なのかそれともそうではない三角形まで含むのか。含むことは間違いなさそうだけれど、それをいかに証明するのか。あるいはこのみっつの条件のいずれかを満たす二つ以上の三角形の関係を相似と呼ぶこととしているのか。いくつか例をとりあげる必要がきっとある。けれどそれに取り組むことができるのかできないのかで、その後の数学に向かう姿勢は変わってくる。
小川糸の『にじいろガーデン』を読み始める。優しい始まりがそこにある。それは一編の小川糸のエッセイを読んでいるせいかもしれない。たった一編のエッセイでその印象は形作られる。僕の彼女のイメージはハッピーエンドを運んでくれる作家。果たしてどうなるのか。少年と女子高生の出会い、少年の母とその女子高生の出会い。ドラマチックな始まりはその先を読むことを要求してくる。読みやすさとは何だろう。芥川賞と直木賞の違いは何だろう。本屋大賞はどれだけの価値を持っているのだろう、その他の賞も含めて。
三角形とは何か。三角形を言葉で説明することはできるのか。三つの角をもつ図形。三本の直線で囲まれた図形。さて。三つというのは何か。角とは何か。三本とは何を指すか。直線は存在するのか。これも三角形でありあれも三角形であるならば、それは無限に想像することができる。無限とは何か。想像するというのはどのような状態か。私が想像しているものを私ではない誰かは想像することができるのか。それら想像されたもの同士はどのように比較されるのか。想像された三角形は人の数だけはきっと存在する。存在するとはどういう状態か。
小説の面白さはどこにあるのだろう。例えば落語を活字で読もうとは考えない。落語は観るものであり聴くものだから。詩や俳句は活字で読むことがほとんど。朗読会に参加していれば別だろうけれど。さて小説。これまでで一番衝撃が強かったのは安部公房の作品。『けものたちは故郷をめざす』という小説。大まかな流れも細やかな描写もおぼえていない。けれども数十年前に読んだその小説を超える衝撃をいまもって受けたことはない。何がそこまで僕の脳の核心にぶつかったのか。
プールに通い始めていつの間にか3年が経った。早かった。最初は平泳ぎくらいできるだろうと思っていたけれど、まったくダメ。いつの間にかクロールで25メートル泳ぐことができるようになったけれど、それはすでに半年を優に過ぎていたころだったろうか。まったく不完全ながら、初心者コースとして設けられているレーンを使用するにはちょっとだけ気が引けるくらいにはなっている。それでも、ほとんどの人たちの泳ぐスピードにはまったく歯が立たない。それはそれでいいのだけれど。
千年もの昔から、戦は続いている。人は親子であれ兄弟であれ争うことをしてきた。戦争はその指揮官の名で記録される。英雄になることもあれば歴史から抹消されることもある。人は争うことで今日の繁栄を築いてきた。千年単位でみれば。ほんの一万年前、石器時代というのがあったらしい。旧石器時代なのか新石器時代なのか。石を加工するかしないかで時代は区分され、自然物の加工に成功してのちの人類の繁栄ぶりは目を瞠るほどだ。
子供の頃の悩みは深刻だった。大人になって数々の失敗をしてきたけれど、子供の頃の深刻な悩みには今のところ至っていない。どこに違いがあるのだろう。大人からすれば子供の悩みは取るに足らないかもしれない。けれども心底、落ち込むのだ。たくさん泣いたりもする。学校に行きたくないという子供たちがたくさんいることが証明している。学校に行かなくても守られているから、と言われるかもしれない。けれどもその環境下で進路を決めていかなくてはいけない。将来があるだけその悩みも深いのだろうか。
書評というものがある。これまで読んだことのない分野の書評で、読みたくなる、時があります。なぜなのだろう、と今回は考えました。ひとつは作家の人生に一行だけ触れていること。そして作品群の特徴を一言だけ入れていること。その上で、当該の本の紹介を結の直前まで言葉巧みに描写し(もちろん至って簡潔に)、結への期待感を膨らませること。そして作者の作品に対する思いや生活歴の多少の紹介。それだけで読みたくなる。みんな、どれだけの知識量を持っているのか。
無断で借用するのは著作権に違反する。そこでどうにか改変できないかと考える。しかし季語がわからない。検索する。「昼寝」が夏の季語らしい。ということは「昼寝」をしているのが誰かということになる。子なのか親なのか。妻なのか夫なのか。彼女なのか彼氏なのか。「妻」だとしよう。妻が昼寝をしている、夏に。夏のマンションなのか一軒家なのか。リビングであればどちらでもいい。ソファで優しい寝息をたてているとしよう。すでに改変ではなく創作になっている。今日もまた想像力の欠如に涙する。
コロナウイルスにはじめて感染した。そのせいで、ブログの更新ができなかった。久し振りに更新することになるけれど、7月5日から7月15日の分は7月16日に書かれた文章であることをここに宣言します。宣言するというほど大層な内容ではない。このブログを読んでいる人は、僕以外には、おそらくいない。だとすれば何のための宣言か、ということになる。この休養期間中、いくらでも文章をためることはできたはずなのに、しなかったのにはそれなりの理由がある。
「宇宙」という言葉を僕はおそらく理解している。「事物」という言葉もそうだし、「存在」という言葉も同様だ。僕の行動範囲には限界がある。それにもかかわらず僕は星が恒星であり、それ自体で燃えていることを知っていると思っている。太陽は何か原料になるものを燃やしており、燃え尽きる時、その寿命がまっとうされる。僕の目前にある時計もそこにあることを僕は知っていると思っている。「そこにある」ことを「存在」という言葉で表現している。
普通の生活をしている限り、言葉にはそれほどの違和感を覚えることはない。子どものたちの質問に大人が答えられないことがままあるように、言葉あるいは文はそれほど人間にとって自明のものではない。「空はどうして青いの?」という質問はありがちかもしれない。けれど僕はそれに対して答えることはできない。ネットで検索するとすぐに答えが見つかる。そこでは「太陽光」という言葉が登場し、「波長」という言葉が使用されます。さらに「大気」の影響があり、ということも知ることができます。けれども「大気」などのそれぞれの言葉についてさらに問われると、また回答ができない状態になります。
子どもを育てるってどういう感覚なのだろう。自分が60才間近になってなおさらのこと、気になるようになっている。もっと若い頃は、子どもがいることを羨ましく思ったり、妬ましく思ったりで、素直に親の感情を考えることはできなかった。けれども最近は、幼児を育てている親や義務教育期間の子を育てる親、独立した子を持つ親など、身近にいて話を聞けば聞くほど、子を育てる感覚に興味が湧くようになる。自分の変化にあるのか、周囲の変化によるものか。
いつからだろう、スポーツ観戦をできなくなったのは。元々観ていたのはプロ野球とバレーボールとマラソンくらいのものか。プロ野球では江川卓がいた頃のジャイアンツが好きだったし、工藤が投げていた西武や広島との日本シリーズはいまも記憶に残っている。もう何十年前の話だろう。マラソンは瀬古利彦の頃。バレーボールは三屋江上の頃。成人してから観なくなったのか、と思う。感動は今もするけれど、なかなかだな。
「酸」という言葉の持つ意味はどのようなものだろう。化学に詳しい人は「酸」という言葉を説明できるかもしれない。あるいは家事に詳しい人はそれなりの意見を持っているだろう。けれども僕は「酸」という言葉を説明することはできない。ネットで検索するも、やはり簡易的に説明はできない。「酸」には「塩基」が対をなすようだけれど、だから何だ。「酸性」と「アルカリ性」は聞いたことがあるような気はするけれど。大学を出ていてもこんなもんだ。
角田夏実という柔道家がいる。youtubeはなんでも教えてくれる。いろいろと毎日何本ものyoutube動画を再生している中で、角田夏実選手のことを知った。巴投げってそんなに簡単に決められるものなの?という率直な感想。さらに。腕挫十字固。プロレスでしか見たことがないと思っていた。きれいに、きまる。それも国際大会で。背負い投げや内股といったきれいで豪快な技ではないけれど、角田夏実、応援しています。
幸せって何だろう。諦めたら当たるジャグラーのように、期待したら当たらないジャグラーのように、将来を見通すことができれば気持ちのアップダウンも起こらない。こうすればうまくいく、ああすれば失敗する、そんなことを考えるオリンピックチャンピオンなんているんだろうか。明確な目標があるならば、今できること、今達成できる小さなことを一つづつ乗り越えていけばいいのに。小さな目標達成の先に大きな目標の達成もあるに違いない。だから、一歩ずつ歩いて行こう。
ギターが全然上達しない、といったらウソになる。でも、ほぼほぼ上達しない。水泳もほぼ毎日3年通っているけれど、いまだにバタフライを泳げない。これも、まったく上達しないわけではないけれど、というところ。多分、毎日の修練の仕方が違うのだろう。先生につけば、といってもさらさらその気はない。このさらさらその気はない、という僕の心持ちが、いろんなことを上達させない原因。泳げる人でも、先生をつけて練習している。仲間と真摯に取り組んでいる。いいな、と思う反面、僕にはできないと思い込んでいる。
今年59才になる。その休日の朝、何をしていいのかわからない。ネットで進歩のない将棋をして、youtubeを見て、動画で一人エッチをして。itunesで中島みゆきの「世情」を聴きながらこの文章を書いている。迫らない死期に不安を感じることもなく、貯金もないのに老後の心配をすることもなく、シュプレヒコールを聞くこともない。もっともらしい意見がネットで散乱していてもそれに意見をぶつける元気も気持ちなく。
次に流す曲は中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」だ。この50年何をしてきたんだろう。この曲にしたって、NHKの番組のエンディングに使用されていた当時は、何を今さら中島みゆきと思ったものだ。好きになり、飽きて、そうして結局戻ってくる。みんな何を目的に生きているんだろう。みんなすごいな、と思う。旅はまだ終わらない、と歌い上げるその歌唱力に改めて中島みゆきの素晴らしさを思う。どれだけ集中すればそんな歌い方ができるのだろう。歌詞が、メロディが生まれてくるのだろう。
今流している曲はprinceの「purplerain」だ。当時は何を聴いていたのだろう。いまさらこれか、と思った記憶がある。でも、それから何十年たって、ようやくその綺麗さに気付いたのか、ギターの練習をしている。もちろん全然上達はしないのだけれど、何回でもチャレンジできるのだ。なぜだろう。princeの何に良さを見出してしまったのだろう。歌も上手だし。非の打ち所がないよね。ギターソロはいくらでもかっこいい。弾けるようになりたいな。
今日は一日、パチンコの日だった。朝10時の開店と同時に打ち始めて、午後5時30分まで、当たりを4回引いて、9万円の負け。馬鹿でしょ。いつまでこんな事繰り返すのかな。もちろんパチンコ屋に行く自分がいるからこんなに負けるのであって、負けたくなければ行かなければいい。上手にできていて、ちゃんと4回はチャンスをくれる。これがああなっていれば、という現実逃避の思考。馬鹿だよな、と思う。逆にパチンコ業界は頭いいよな、と思う。
昨日は一日パチンコ屋へ行っていた。今日は一日寝ていた。日清の焼きそばは素晴らしく5食分を昼間に食べて、その間はひたすら眠っている。最終的に起きたのが夕方の5時30分。それからプールに行って、晩御飯を購入して帰るという一日。日曜日のプールの時間帯も大体決まっているのだけれど、久し振りに会えた人もいて(話をするとかではなく)、やっぱりがんばろうと思った。そしてこのブログ。何をしているんだろう、休日だというのに。
小川糸の『にじいろガーデン』を読み終えた。レズビアン、ストレス、起業、生きる力、相手を思いやる心などなど、テーマは多岐にわたる。そのどれもが、ふわっと触れられていて、でもどれもが小説のテーマとして柱として成立していて、読みごたえはあったのか、と思う。ひとつのシーンはその次の展開を予想させる。けれどもことごとく裏切られ、人の綺麗な部分がどんどんと特化されていく。文章が拙いのか、展開が拙いのか。拙さが面白さを際立たせる。
小説をいくつか読んだことがある。『老人と海』は翻訳ものだが、おもしろい。何が面白いのか。『心のままに』は日本語で書かれたものだが、おもしろい。そこに共通項はあるのだろうか。人間が主人公であることに間違いはない。一方には女性はおそらく出てこない。他方には男女の機微が表現されている。どちらにも会話はある。登場人物の言葉はどのような効果を持っているだろうか。読む側の心持ち次第で、小説のおもしろさは有とも無ともなりうる。
何をしたいのだろう。おいしいものを食べて、ラジオを聴いて、ブログを書いてこの後は何をすればいいのだろう。一年に数度、車に乗っているとき以外でラジオを聴くことがある。車に乗っているときはラジオに集中することができるけれど、そうでない時はなかなかそうはいかない。西川さとりさんと梅田あんりさんのラジオ。二人ともいい声してしているよな。朝から素敵な声に出会うことができて、ちょっとだけ幸せ。
ラジオを聴くといろんな音楽を聴くことができる。イベント情報もたくさん知ることができる。多くは右から左だけれど、ほんの時々、もっと聴きたいと感じるしそこへ行ってみたいと思ったりする。誰がラジオを聴くのだろうと思うけれど、やっぱりそういう小さな情報を必要としている人たちが少なからずいるのだ。すべての情報を脳にとどめておくことはできないけれど、そういう誰かが必要とする情報を発信できる人間になりたい。
ラジオがパリオリンピックを話題にしている。最近youtubeのおかげで少しだけ知っている名前が出ている。柔道の角田さん、永山さん、水泳の池江さん。みんながんばってほしいよな。がんばるってなんだろう、と思うけれど、オリンピックに出場する選手その人や出場を目指した人たちは多くの人たちに支えられながら、その技術を向上させてきた。その期待に応えようとするかもしれない。そして僕は、すべての選手が十二分の力を発揮できることを期待している。
パリオリンピックが始まった。角田夏実選手が金メダルを獲った。おめでとうございます。そう、おめでとうございます!角田選手しか知らなくて、普段から柔道を見ているわけではなく、youtubeでは角田選手が圧勝する動画ばかり見ているせいもあって、このオリンピックでも圧勝するのだろうな、と軽く考えていた。しかし、他の48kg級女子の試合を見ていると、不安になってくる。こんな人たちに本当に勝てるの?この緊張感がオリンピックだよな、と思う。にわかファンとして、とにもかくにもおめでとうございます。
柔道の永山選手、銅メダルおめでとうございます!永山選手のことはこれも角田選手絡みで知ることになったのですが、応援していました。永山選手にも金メダルを期待していたのですが、でも、銅メダル。照準を合わせるオリンピックで。日本の代表として参加して。その道のりは険しく、それでも辿り着いてからがスタート。判定には疑問も残りますが、それはそれとして、ただメダルの獲得ができたこと、その試合で果敢な姿勢を見せてくれたことに、ただありがとうと伝えたい。
英単語の本を買う。数ページ読んで飽きる。数学ⅢCの本を買う。数ページで頭がついていかなくなる。雑誌『暮らしの手帖』を買う。あこがれだけが強くて、数ページ読んで止まる。さて僕はいったい何をしたいのだろう。哲学の本も中途半端、ギターのコピーも中途半端、youtubeだけはひたすら見る。何がおもしろいのだろう。会話が楽しいのだ。僕自身はいつも一人ぼっちで、誰と話すこともないから。そろそろ、何かできないかな。
日本国憲法第9条をここに記してみる。「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」というもの。ブルーハーツは「誠実さのかけらもなく 笑っている奴がいるよ」と歌った。僕はこれからどこに行けばいいのだろう。今なにをすべきか。明日何を考えるべきか。
味噌汁を作り始めて三日目。出汁は花かつお(商品名かな)。具は豆腐と、ニンジン玉ねぎキャベツを山盛り。とりあえず三日坊主を目指しての今日が三日目。少しだけ達成感。明日はどうなるだろう。大体、お湯を沸かす、花かつおをいれる。ニンジン、玉ねぎ、キャベツを切る。豆腐に包丁を入れる。具と卵を湯の中に入れる。ただこれだけのことができない。なんてことだ。こんなことで達成感だなんて。思いは形になるのであれば、いっぱいいいこと考えよう。味噌汁づくりの三日坊主にまたいつか挑戦できるだろうか。
凄い人たちがいる。オリンピックに出場できるだけでもすごいのにその中でチャンピオンになるなんてどれだけの強さを持っているのだろう。彼ら一人一人がおそらく段違いの技術を持っているはずで、その中でも一番になるというのは。しかも圧倒的というほどの強さを見せる人たちもいる。プロ野球の選手もしかりで、学校や地域で圧倒的な存在感を備えた人たちの中でさらに成功をおさめるというのは、やはり人間が違うのだ。
ギターを弾く。タブ譜、音符どちらも読めるが、リズムが取れない。指を動かすのが遅い。なぜなら曲を覚えていないから。おぼえる気がないとしか思えない。何十回となく弾いた曲でさえ、楽譜またはタブ譜を見ないと進まない。水泳も一緒で、いつまでもバタフライができない。上手とは言えない人もいるけれど、ちゃんとバタフライをしている人はたくさんいるのに。何が違うのだろう。どうすれば一曲弾きとおすことができる?
なんでyoutubeばかり見るのだろう。面白いから、というのはひとつの答え。でも、何かに打ち込んでる人はそんなにyoutubeを見るかな。それとも家事で忙しい人はyoutubeにはまる時間なんてきっとないよな。働く主婦の人たちは帰ってから寝るまで、座ることはない、みたいなことを言っていた。一度腰を下ろしてしまうと、というより腰を下ろす間もなく洗濯をし、食事を作り、掃除をしてそれだけできっと大変なんだ。それも幸せ。これもきっと幸せ。
プールに通っている。もう3年が過ぎた。まったく泳げなかった僕が、何とか25メートルは泳げるようになった。同じ時間に教室が開かれるのだが、それより少し前に来て練習する人がいる。その人は初心者というより立派なスイマーのように見える。でも、教室に通っているくらいだから、本人はさほど自信を持っているわけではないのだろう。それはわかる。でも初心者コースで泳がなくてもと思う。まあ、いいのかな、他人のことを気にしすぎなのかもしれない。
「タビビトノキ」というのがマダガスカルにあるらしい、という情報を得た。ネットで調べる(本当に僕は何も知らないのだとこの度に思う)。驚く。楽天市場で通販されているではないか。ということは、みんなはすでに「タビビトノキ」のことを知っていたのだ。それは「旅人の木」と表記もされる。さて。勢い込んで調べたはいいけれど、通販されている時点で興が冷めてしまった。そうか、言葉って人間の感情に良くも悪くも影響しているのだな。
宮沢賢治という人がいる。なぜ彼の名前を思い出したのだろう。花巻市によると、彼は1896年に現在の花巻市豊沢町に生まれています。生誕100年を優に超えています。その彼の何を知っているでしょう。相変わらず何も知らない。けれども思い出す。それは『銀河鉄道の夜』のせいだし、「あめゆじゆとてちてけんじや」の一節と「雨ニモマケズ」のせいです。それ以外には何も知らない。おそらくその詩のいくつかは読んだことがあるけれど。それは言葉が時を超えて場所を超えて存在することの証明。
戦争。誰かを殺すこと。誰かに殺されること。人間が人間を殺す。たとえば愛する妻が誰かに殺されたとしよう。あなたはどうするか。僕はその殺した人を殺したいと思うだろう。本当にそうするかどうかは、その場面にならないとわからない。殺すかもしれないし、殺そうとするかもしれないし、そんな勇気を僕は持ち合わせてはいないかもしれない。人を傷つけることが得意な人たちがいる。それはどこから来るのか、僕にはわからない。僕も傷つけているかもしれない。何を議論すればいい?
君は一人じゃない、そう言われてみたい。たとえばマイケル・ジャクソンは「you are not alone」と歌ってくれた。その歌声だけで頑張れる気がした。でも、どこへ行ってもずっとひとり。いつからそれに気づいただろう。友達もいない。そんな僕に誰かが言う。「お金出してくれたらバスハイク付き合ってやってもいいよ」と。どれだけ馬鹿にしているのだろう。馬鹿にされていると感じない人はきっと友達もたくさんいるのだろう。馬鹿にされていると感じる僕が間違っているのだろうか。
「なむあみだぶつ」と唱えてみる。あるいは「なむみょうほうれんげきょう」と唱えてみる。それか「いちにいさんしいごおろく」と数えてみる。現実逃避だが、思考の行き先変換という効果はもっている。思考を論理的に組み立てる人がいる。あるいは会話を飛ばすことで優位を保とうとする人がいる。それぞれ、自分を大事にしたいのだ。しかしそのゲームは各々の思惑から外れたところで展開している。結果、ゲームは独立しており、ゲームの目的を知っている人が勝者となる。勝てば官軍か。
何にもない。朝から起きて、youtube見て、疲れたら横になって、気が付いたら眠っていて、目が覚めて、youtube見て、、疲れたら横になって、気が付いたら眠っていて、目が覚めたら午後の遅い時間になっている。またyoutube見て、プールに行く時間になったからプールで泳いで、終わったらパチンコ屋へ行って、また興も思い通りにならないといってイライラを募らせて、コンビニで夕飯を買って、またyoutubeを見る。これって、どんな生活なの?
メディアではパリオリンピックの話題が満載で連日報告されている。メダルを獲れた人もとれなかった人も、誰もがその頑張りを讃えられている。僕もその一人で、金メダルの有力候補がメダルを獲ると喜び、獲れないと落胆する。決勝に進出した選手も、メダルがとれなくてもその入賞を素直に喜ぶことができる。今まで眼中になかった入賞が、その人の頑張りで感動をもらえたことに嬉しさがこみ上げてくる。なんだか、いいオリンピックだったな、と思う。
数学Ⅲ・Cの入試問題の本を眺める。読むというほどのものではない。考えるというものでもない。記述されていることをなんとなく眺める。還暦を前にして何をしているのだろう。知識欲はあるように思うが、何せ理解力が乏しいので、理系の本も文系の本も読むという段階には至らない。僕の興味は世のお母さん方の思いからはほど遠いところにある。何のために生きているのだろう。このまま体を悪くしたら、どうなるのだろう。不安しかない。いや、不安を抱えるほどの想像力もない。
甘い言葉、甘い誘惑、甘い香り、甘い心。甘いで思いつく言葉。こんなもの。いかつい顔、いかつい体、いかつい態度。いかついで思いつく言葉。こんなもの。嘘をついたらだめ、嘘も方便、嘘から出たまこと。嘘で思いつく言葉。こんなもの。え、笑顔、エモーショナル、絵心、円形脱毛。えで思いつく言葉。こんなもの。思いやりがある、思いやりがない、思いやりで思いつく言葉。こんなもの。明日晴れるといいな、今はそんな心持ち、嘘でもいいから笑って、演技力が試される、置いてけぼりになっても。
保護司をしている。ただ担当を持ったことがない。もう2年が経過しようとしているのに。なぜだろう。対象者がいないということは、良いことなのか。それとも僕自身に問題があって、担当をつけてもらえないのか。気分的には後者のような気がする。僕自身の社会生活、結婚をしていなくて、休日はほぼパチンコ屋に入り浸っていて、友人もいない、家族との付き合いもほぼないという状況、僕を取り巻く環境が原因のような気がしてならない。
叶わない夢がある。きっとそれは僕だけのもの。草いきれのする大地の端っこで、獣道と思しき道を歩いていく。この先に何が待っているのか僕は知らない。淋しさを抱えて、静かに涙する人がいる。幸せが何かを知らずに微笑みをたたえる人がいる。素顔のままで生きることをためらわない人がいる。世界中を敵に回しても私だけはあなたの傍にいると言ってくれる人がいる。それだけで人間は強く生きることができる。背筋をしゃんと伸ばして前を見つめることができる。
夏と言えば。花火は夏でしょう。公園や庭先で花火をしている人を見かけることも滅多にありません。年単位でいつ見かけたかな、という程度のもの。地域、というよりもう少し大きい単位での企業などの協賛を得た花火大会はそこここで行われているようですが。花火の名前を知らないことに気付く。以下ネット情報。菊、はよく見る。冠ろは見事。その余韻を楽しむことができる。柳は何より花火大会を代表するのでは。飛遊星、花雷も印象的。季節を先取りした花火大会も乙なもの。
夏の休日。クーラーの効いた快適な部屋でパソコンを触ったりラジオを聴いたりギターを弾いたり、ぼんやりと過ごすことのできる幸せ。昨日の休日は一日パチンコ屋で過ごして、勝ったから良かったものの、負けていたら凄惨な一日になっていた。当たり台っぽいのを放棄したり、当たっても大勝ちとまではいかず、もやもやした気分で夜はプールでバタフライの練習。一向にうまくならない。でも何となく上達しているような気分。さて、今日は今から何をしよう。
古城紋という人がいる。youtubeで、いったい何紋、というのをやっている。還暦のおじさんが見る動画ではないけれど、水泳関連で辿り着いた。その彼女は歌も歌っているようで、なかなかいい、と思う。けれどきっとそんなに売れてはいない。売れる曲と売れない曲の差はどこにあるのだろう。『Take your mark』というのはなかなかアスリート応援歌としてはいいのではないかと思うけれど。
今日も一日が終わろうとしている。午前中は眠っていて、夕方からプール、そしてパチンコ屋、帰ってきて夕食と呼べない腹ごしらえ。何のために食事をとっているのかわからない。馬鹿でもお腹はすくんだよな、と思う。リンゴと梨を買って帰ったけれど、フルーツってこんなに高かったけ。お金がないから妬みばかりが激しくて、BMWを見たら嫉妬してポルシェを見たらドライバーの顔を確認して「あんな奴が」と妬んで。僕はいったいどんな顔をしているのだろう。
淋しさに包まれて、生きているのは、楽しくはないかもしれない。淋しさに負けて、生きていくのは、辛いのかもしれない。淋しいからといって、誰かを無いものにするのは、良くないのかもしれない。寂しい時間は、幸せなのかもしれない。寂しい空間は、時間を持て余すかもしれない。寂しい表情をしていると、誰も近寄らないかもしれない。淋しいと言い、寂しいと言い、涙ばかり流しているのも一つの人生かもしれない。どうやって生きていけばいい?
オリンピックで金メダルを獲るレベルの選手と日本の大会で優勝する選手とが話をしている。そこでは技術的なことや精神的なことが話される。そうか、とも思う。そうかと思うのは僕で、何のとりえもなく毎日パチンコ屋に通うような男。さて。同じ言葉がそこでは鳴らされるけれども、受けとり方は同じなのだろうか。言葉の持つ意味はそれぞれにおそらく違う。そう思うのは、誰かに勝つ経験があるかないかだけでも違ってくるのではないか。こうすれば勝つだろうというのと、こうすれば勝ったというのとは違う。コメンテーターって難しいんだな。
何処へ行っても何をしても、なめられている。そんな人間なんだ。きっと遠慮深い人はたくさんいる。そういう人たちはたぶんだけれど、なめられているなんて考えない。ではなぜ僕はいつでもどこでも、なめられている、と感じるのだろう。誰も僕のことなんか見ていやしない。たとえ見られていても、僕は僕自身でしかないのだから、僕の道を行けばいい。彼の視線彼女の視線、どうしてそんなに気になる?彼らは彼らの道を歩いている。だから僕は僕の道を歩こう。
風が吹いている。夜はまだ始まったばかり、君は何処にいる。部屋の中はしんと静まり、耳鳴りだけがしている。つけたラジオもすぐに消して、やっぱり妄想の中で一人いる。どこへ行けばいいのかわからずに、思考はただ走っているいや歩いている。思考はぼんやりとして数学問題を解くときのように論理的ではなく、日本史の出来事を記憶してもすぐに忘れる。何が積み上げられているのかわからない。ただ今日という日を生きること、今はそれ以上の何かはない。
夢をみること。夢は眠っているときに、現実を下地に展開される物語。見知っている人もいれば見知らぬ人も登場する。飛べるはずのない空を飛んだり、地面のない道を歩いて行ったり。時には官能的な場面も登場したりする。生活していてもやっぱりどこか夢うつつなところはあって、それを実現しようとがんばる人たちもいる。オリンピックで金メダルを獲りたいというのはわかりやすいかもしれない。でもそれ以外にもたくさんの実現したい夢がそれぞれの心の中にある。
仕事をしている。雇われている。どうだろう、幸せだろうか。朝起きるのは苦痛ではない。ただ、望む生活ではない。問題は望む生活を休日にしているかといえばしていないということだ。朝起きて、学習して、パチンコで寄付に使えるほど稼いで、ジムで汗を流して、ギターやピアノの練習をして(できれば発表の場を確保したい)、その間においしい食事をとって、好きなyoutubeを見て、ヨガもどきをして、安らかに眠る。誰とも話さない一日より、嫌なことがあっても人と話せる雇われの身が幸せか?
何かに取り組んでいるとき、まったく上達しないわけではない。ギターを弾いて、まったく上達しないわけではない。30分かかって演奏していた曲が、15分で弾けるようになる。そうかもしれない。けれど元々5分の曲を15分かけて弾いても、聞かされている方は、勘弁してくれといいたい。それはそうだろう。5分の曲は5分で演奏されて(多少の幅はあるにせよ)初めてそれを音楽と認めてくれるだろう。そうかもしれない。だから人前で演奏することはできない。でもそれでも、楽しいんだよ。
さて、人生とは何か。還暦を迎えようとしているけれど、今後はいったいどうなっていくのか。さて、人間とは何か。一日24時間を過ごしているけれど、その間にどれだけたくさんの人間をみていることか。彼や彼女は僕の思考領域から外れたところに存在している。彼らはいったい何者か。さて、生命とは何か。人間も植物も燕も猫も、生命体として同じであり、最近でさえおそらく生命体だろう。単細胞生物と私という生命と、何がどう違うのか。
パリオリンピックが終わってのち、角田夏実選手のyoutubeをたくさん見ている。他の男子の試合も見るけれど、その見る量は圧倒的に角田選手のものが多い。なぜか。答えは単純で、どうしてそんなに巴投げに成功するのか、どうして簡単そうに腕ひしぎ十字固めに入れるのか。見て何がわかるわけではないけれど、ただそのまばゆさに感動するばかりなのだ。他の選手たちの豪快な内股や背負い投げにも感動するけれど、今まで見たことのない角田選手に拍手をたくさん。
何をどう変えればいいのだろう。毎日youtubeを見て、パチンコをして、オナニーをして、それで一体、何が変わる?プラス面はおそらく、ほぼ毎日プールに通っていることと、ギターを弾いていることくらい。職場にも何処にも自分の居場所はなくて、どの時間もどの空間も自分の居る場所ではないと感じるし、おそらくそう。だって、ほぼ誰からも話しかけられないし、ほぼ自分から話しかけることもない。そう、こんな風に考えることがいけないことなのかもしれない。
何をしても少しだけ。プログラムの学習をしている。JAVAとPHP。プログラミング言語も様々あって、どれがどれやらで、わからない。たとえば勤怠管理システムを作りたいとき、どのプログラミング言語を選択すればいいのか。あるいはホームページを制作したい時、どのような言語が必要なのか。ホームページはHTMLとCSSがわかっていればよい、というものでもないらしい。デザインの要素もあるので、ひょっとするとプログラミング言語とは異なるたとえばADOBEの製品が必要になるかもしれない。どこから始めればいいのだ。
何のあてもなく、神頼みだけで生きてきた。最初の判断は何だったろう。中学生の時に、仲の良かった友人を無視したことかな。その後、哀れな姿になったのは僕自身だった。それとも、小学生の時に同じクラスの女の子に「気持ち悪い」と言われたことかな(正確にそのように言われたのかどうかは定かではない)。どちらも僕の身勝手な妄想が生んだ悲劇だった。それからこっち、自分を押し殺して(隠して)生きてきた。だって、自分を出したら排除されるのだもの(自分を出さなくても十分、排除されている)。
きっと君は遠い空の下で、僕の帰りを待っているかもしれない。この僕の希望的観測、というか身勝手な思い込みの思考は何処からきているのだろう。何をしても、すべてパチンコに結びついて、くだらない思考は出来上がっているのだ。パチンコを製造している人たちは、ギャンブル依存の人たちのことを、あるいは人間の欲望の機微をよくよく研究しているのだろう。ほんの少しの驚きを与えれば僕はすぐに有頂天になる。だから、君が待っているなんてことを考えてしまうのだ。
君の優しさに、僕は慣れていた、笑っても、泣いても、すべてを包み込む、君の淋しさに、僕は気付かずに、拗ねても、膨れても、すべてを冗談にして、今はもう、君がいない、想い出に浸るだけ、星の瞬きを、ただ、見上げている、好きだった、あなたに、もう一度、会いたい。映画を観た帰り、別れようって一言、信号待ちの交差点で告げられた、それきり、君は背中を向け、歩き去った、まるで今日までの想い出はなかったかのように、さようなら。
もう一度、何度でも、君に会いたい。どこへでも、どんな時も、君に会えるなら。さようならと言った君の、冷めた視線を、今も確かにおぼえてる、はずなのに。どうして僕はこんなにバカなんだろう。どうして僕はそんなにもくだらない人間なの。生きてる価値のない、生きてる価値のない、僕はこれからどこへ行けばいいのだろう。いつもどこでも神頼み、駄々をこねればきっと、神様は助けてくれる。白馬に乗った王女様が助けに来てくれる。だから、もう、どうでもいい。
言葉があふれている。本屋さんにも、インターネットの世界にも、生活している人々にも、それぞれに応じた言葉のやり取りが行われている。大方、言葉を発する人はその思う所を言葉にしている。素敵な映画を観て感動した時、「泣けた」と言うかもしれない。好きな女性に改めて、「好きです。僕の彼女になってください」とい言うかもしれない。2024年にはもっと別の告白の仕方があるかもしれない。それにしたって、「好き」という気持ちを伝えたくて、言葉にしているのだ。
「愛してる」って言ってみて、恥ずかしくて俯いてしまう、優しい笑顔が誰よりも、私の心に刺さってくる。夜はもうすぐそばに来ている、頬を撫でる風がもう秋の予感、明日はきっと晴れるかな、それとも強く、強い雨が思い出をひとつ増やしてくれるかな。もっとしっかりと私の手を握って離さないでいて、あなたの瞳に私を焼き付けて、二度と忘れることのないように、呟いて、「愛してる」って、言ってみて。それだけで私は強くなれる。
今日もまた。僕のような人間は、調子に乗っては駄目なのだ。スポーツの世界、ビジネスの世界、学業の世界とその他にもいろんな種類の世界がある。ここでいう世界とは、ゴールを同じくする集団ということにしよう。たとえば柔道女子48kg級の角田選手は、オリンピックに出るために階級を変更した。そこには様々な種類の賛成もあり、同時に批判もあっただろうか。パリオリンピックで金メダルを獲得した角田選手の思いを聞いてみたい。
今頃君は何をしているかな、約束してもうすぐ三年がたとうとしている。三年なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。君の顔をまだ憶えている。君の香りをまだ憶えている。君の肌の弾力をまだ憶えている。今夜流星群が現われるらしい。昔ならば予言者の推測に驚かされたかもしれない。でも現代では、おおよそ天体の運行は予測できるだろう。星の数々の微小な動きを毎晩記録し続けるその勇気と忍耐があれば、何か大きなことをすることができるのだろうか。
話し込むことがあるだろうか。テレビのコメンテーターの発言に胸糞悪くなり、職場の上司の一方的な態度に辟易し、パチンコ屋の喫煙室での会話に薄ら笑いをし、街を歩けば可愛い子や綺麗な子にすれ違い、そんなことばかりの日常の中で、誰かと何かを話し込むことなんてない。世界が平和でありますように、とは願うけれど、紛争地域に行ってその戦闘を止めることはできないと諦めて、パチンコ屋でこれまでの負債を取り戻そうとさらに負債を増やしている僕は、誰かと話し込みたいのだろうか。
天才というか、才能のある人たちっている。プールに入って、水泳が上達するスピードは人それぞれ。上達が早ければ、褒められもするだろうし、優越感も手伝って、さらに上達速度が上がる、というのはありうる話のような気がする。同じことをやってるつもりでも、練習を重ねても、上達が遅い人たちはいる。僕はその一人だから、その気持ちはよくわかる。悔しさからさらに練習するか、それでも上達しない時、人は脱落していく。
そういえばずっと昔から夢ばかり見ていた。鼻が高くなるようにと洗濯ばさみで鼻を一晩中つまんでいた。もちろん、鼻が高くなることはなかった。好きな人のことを想いそれがまるで実現されるかのように、たくさん自慰行為をした。小学生の頃、業者にそそのかされて学習教材を知人に売ろうとしていた、その利益が欲しいがために。どれひとつうまくいったためしがない。当然のように。そんな馬鹿なことをしている友人を僕は知らない。還暦を迎える今も、状況は変わらない。馬鹿は馬鹿なのだ。同語反復。
変わるということ。変化するということ。「変わる」と「変化する」との間にはどのような違いが見出されるだろう。人が変わる、という時、例えば臆病だったものが勇敢になった時はその使用に誤差はないように思う。人が変化する、という時、この使用は間違いであるように思う。例えば人が昆虫に変化する、というのはだいぶ違和感が軽減される。年を取るにつれ、人は知識の量が増えるだろうと同時に身長や体重も変化する。
吉田拓郎の歌詞に感動したのは僕が中学生の頃。今から45年も前のことになるのだろうか。とっくにその歌詞を書いた拓郎の年齢を通り越しているのに、その歌詞に辿り着けないまま、もうすぐ還暦を迎えようとしている。たとえば、と書こうとしてやめる。またネットでの検索になるから。浮かんだ言葉は、そしてメロディは「超えて行けそこを越えて行けそれを今はまだ人生を人生を語らず」というもの。いくつになっても、越えられない壁がそこにはある。
悲しいことって何だろう。人付き合いがない人にとっては、悲しいことってあまりない。父親が亡くなった時、涙はでなかった。ただ、その頑張りには素直に敬服していた。単に公務員を勤め上げただけの人、その妻を何らか虐げられた気持ちにさせた行為を伴っていたとしても、ただ敬服した。その時、涙の一滴も出なかったけれども。おばさんが亡くなった時は悲しい気持ちになった。どういう心持ちだったのだろう、涙が少しだけ出た。僕自身の離婚の時はどんな気分だったろう。
パチンコ屋に行く。お金持ちそうな人はいない。みんな、苦労しているように見える。その中の一人が僕。しゃれた服装をしているわけではない。負けて台を叩きたくなる気持ちを抑えて、さらに追加投資をする。千円二千円、やがては一万円二万円と嵩んでいく。もう取り返しがつかないとなって、やけくそでお金をおろし、全額使いきる手前で、投資額の十分の一が戻ってくる、そのようにして明日はもっと早く当たると信じ込んで、明日も行く。明後日も行く。僕はいったい何者だ。
本屋さんに行く。購入することが目的の時もあれば、ただふらっと立ち寄る時もある。ふらっと立ち寄る先に、洋服店はない。ドラッグストアもない。コンビニも靴屋さんも時計店もその選択肢の中にはない。なぜか。時計屋さんに立ち寄らないのはお金がないから、というのが大きい。腕時計を購入する習慣があれば、きっとふらっと立ち寄っている。本屋さんに立ち寄るのは楽しい。スポーツ雑誌や音楽雑誌、新書や小説やコミックス、なんでも手に取ってふわっと感じる紙の匂いがたまらない。
『暮らしの手帖』が好きだという話は何度となくしてきた。和田邦坊という人がいるらしい。ネット。「灸まん美術館」のサイトがある。いろんな絵があるな、と思う。イラストレーターというか、漫画というか、何かそのようなもの。知られた画家、たとえばゴッホとか、鈴木英人とか、横山大観とか。鳥山明だって、綺麗な絵を描いていた。江口寿史の描く女の子は誰よりも可愛かった。佐野元春を知ったのは多分、江口寿史の漫画から。時代は何に何が映されているのだろう。
和田邦坊さんの作品の一つに「香川県観光協会」のものがある。『暮らしの手帖』にはいくつかの作品が紹介されているが、この観光協会の作品がもっとも印象的だ。そもそも、何が描かれているか、わかりづらい。よおく見ると船や(だから海や)建物や(いえば県庁や)お城が描かれている。写真のように細密に現実を再現しているのではなく、原色を使用してポップに仕上げられている。ここで抽象的というのはおそらく間違いなのだろう。この作品で僕は何を受け取っただろう。
福岡、博多、天神、山の幸、海の幸、能古島、糸島、高級住宅街、ドーム、野球観戦、博多の森、サッカー観戦、川のせせらぎ、森、散策、小型犬、大型犬、ジョギング、汗、男子、女子、老婆、老人、思いつく福岡市内の風景。行ったことがない、中洲、高級クラブ、外車販売店、キャバクラ、TNC、RKB、品のいいスーパー、安いけれど怪しいスーパー、安くてよい商品を取り揃えているお店、夜の雨、来ない台風、憧れのパリ、いま君はどこにいる。
一人暮らしの場合、サラリーマンとして働いている場合、8時から17時が仕事時間の場合、起床時間は何時が適当だろうか。通勤に(玄関を出てから就業場所到着までが)40分かかるとすると、7時20分に家を出なければならない。ほんの少しだけ余裕をもたせて(10分)出るならば、7時10分ということになる。洗面に10分、朝食(準備と片付け含めて)に30分、としても、6時30分には起床しなければならない。家族がいると、もっと詰まるかな。
権力抗争は歴史上普通にある。さて、何のために権力闘争を行うのか。2024年の日本では政治の世界では自民党が圧倒的な力を持っている。けれど、憲法改正にまでは踏み込んでいないから、憲法を基準に考えれば、憲法改正側が多数を握っているようではない。けれど、権力を手にするために、みんなが知恵を絞っている。日本共産党はどうか。政治の世界では右とか左とかという表現がなされる。権力闘争は健全な競争の一形式なのだろうか。
スポーツが好きだ。観るのが好きだ。でも、野球場へは数度行ったことがあるくらい。サッカーの試合もバスケットの試合もバレーボールの試合も、競技場へ行って観戦したことはない。だから、好きといえるかどうか怪しい。自己申告では観るのが好きだ、ということにしておこう。今、プールに通って水泳の練習をしている。3年目に入っている。こんなに長く続いたことはない。バッティングセンターでは空振りばかりしていた。本当にスポーツが好きなのだろうか。
多様な生物がいる。人間はその中の一種。鳥が虫を食するように、人間は肉や野菜を食して生きている。何かしら食べなければ、生きてはいけない。生物はそれぞれに病気にかかることがあるのだろうか。風邪をひいたり、下痢をしたり癌になったり。その治療のために医学が発達した。今では咳が出るといえば咳止めの、鼻水が出るといえばそれ用の薬が準備され、有り難いことにそれは迷わず効果を発揮する。人間の偉大な一面だろうか。
同じことの繰り返し。パチンコを始めたのが19歳の時。21歳の時が本格的に始めたことになるのかな。以来、負けては借金しての繰り返し。最後は給料もボーナスもつぎ込んで、離婚。最悪の結果を招いても、一人になってタガが外れて、自己破産。食べるものもなく、兄弟に借金。それでもまだ続けている。こういうのを依存症というのだろうな。ギャンブル依存の結末はいかに、というところだろうか。こんな反省文、誰も喜ばないというのに(僕だって喜ばない)。
文化。テレビ。映画。箸。フォーク。うどん。そうめん。手づかみ。ブルース。ギター。楽器。ネタ切れ。みんなどうして面白い話ができるのだろう。楽しそう、と言われた。その人と話している時、普通に安心して話せて、楽しいつもり。バス。乗り込む女性が綺麗。見てしまう。でも他の乗客はその人を見ている雰囲気はない。どうしてみんなそんなに見ないでいられるのだろう。綺麗なのに。普通に綺麗なものを見ていたいのはどうだろう。思考がおかしいのか、と疑問に思うことがある。
読まない『暮らしの手帖』をまた購入する。憧れているのはわかるけれど、僕には合わないんだよ、と僕がつぶやく。手に取ってしばらく、といってもほんの数秒、買うか買わないか迷う。結局買うことになる。読まないまま、この文章を書いている。なぜ買ってしまうのだろう。なぜ読みもしない雑誌を購入するのだろう。なぜ勝ちもしないパチンコ屋に足しげく通うのだろう。こういう人のことを、自制心がない、というのだろうか。でも、ほんの少しだけ、夢をみたいんだよ。
かっこいいと思える音楽がある。youtubeで見た「The Bass Walk: Abraham Laboriel」という動画。ベースとギターとドラムそしてキーボードという構成。何がかっこいいって、ドラムの切れの良さ、踊るようなベースライン、しっかりとリズムを刻むギター、のっかるように軽やかに舞うキーボード、どれをとってもかっこいい。吉田拓郎と何が違う?声がないのに、きまっている。幽玄に歩くかのような。楽器は感覚的な言葉で、気持ちに直に響いてくる。
金曜日の夜だというのに、パチンコに行かなかった。なぜだろう。ここのところ、負けが続いていて、2週間でひと月分の給料以上の負けを喫したから。まあ、よく負ける。どれだけ負ければいいの、というくらいに負ける。ケツの毛まで抜かれる。知ってはいたこと。以前、3万使って2千円の当たりを引いてまた3万使って2千円の当たりを引いて、のまれて終わり。10万円使って途中で当たってものまれて、という経験もある。馬鹿だよね、俺。
憲法を読んだことのある日本人ってどのくらいいるのだろう。半数は読んでいるのだろうか。それともほぼすべての日本人が読んだことがあるのだろうか。現実の場面では根拠を求めるために読まざるを得ない状況にある人も少なからずいるだろう、好き好んで読むというよりは。僕自身も何度か読んだことはあるけれど、第1条は何、とは答えられない。前文も確か印象に残っていたはずなのに、今はもう何も残っていない。社会生活を送りながらも、法というより常識で生きていれば、多分憲法には違反しない。
赤。赤は色として認識される。赤いバラや赤レンガなど。赤は人間にとって、空間を占めるもの。空間には他にも色があって、その様々な色で、人間の認識は成り立っている。心理学を勉強すると、このことについてはどのように理解されていくのだろうか。この赤いバラは、その時の光によって決定されるけれども、わざわざそんなことを考える必要はなく、この赤いバラというだけで、その時の人間の思考は決定される、はず。
赤をネットで検索してみる。画像の後に、ウィキペディアが表示される。クリック(タップではない)。「赤は色のひとつで、熟したトマトや血液のような色の総称」と概略ある。そうだね、と思う。他に赤いものってどんなのがあるだろう。パプリカ。曼珠沙華の色は赤だろうか。思い出せない。自然には花の他に何があるだろう。小さいの実のなる木があったような。鳥の一部には赤をその色素にしているのがあるかな。僕の知識って、ほんとうに薄い。
novel01.太郎はぼんやりと街中を歩きながら考えた。僕はなぜ生きているのだろう、と。職場でだけ人間と話す機会は確保されているけれど、それ以外の生活で人間と会話することはまずなかったからだ。言葉はネット上に投稿される動画やこれに近いものだけしか彼の耳には入ってこない。もしそれ以外の言葉について彼が耳にする時は、近くで会話する複数の人間の発する言葉を聞くときに限られていた。「僕はなぜ生きているのだろう」と太郎は考えた。
music01.ベートーベンを聴いている。ウィキペディアによると1800年前後の人物。ドイツの作曲家とのこと。「その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆」とされているとのこと。ここですでにいくつかの課題が見つかる。まず、表記の問題。ベートーベンで通用するが、Ludwig van Beethoven。さてここにも課題が。気になる語は「ベートーベン」「1800年前後のドイツ」「古典派音楽」「ロマン派音楽」というところだろうか。
war01.戦争には反対だ。戦争はしたくない。日本アメリカロシアイギリスエチオピアペルーメキシコイラン韓国、世界中にはたくさんの国がある。誰かがどこかで戦争をする。その理由は何かと問われれば、きっと、「攻められたら黙っているのか」という言葉に落ち着く気がする。誰かが戦争をしようと準備する。攻撃を恐れて防衛力を高めようとする。あるいは先手を打つかもしれない。戦争が始まって泣いているのは誰だろう。それとも聖戦というものが本当に存在するのだろうか。
novel02.太郎はいつも妄想している。妄想って何だろう。現実ではない世界が思考に広がり、それを楽しむことだろうか。それは妄想ではなく想像だろうか。ホームランバッターになったつもりで妄想しても、現実にはバットにボールが当たらないならば、そんな妄想は捨てて、練習に励めばいい。練習でできないことを妄想しても、妄想は現実にはならない。思考は簡単に現実とは違う場所について考えることができる。太郎はいつでもどこでも、ネットの世界が現実なのだ。
気が付けば10日も過ぎている。誰も読まないだろう文章を書くことに疲れて、いやパチンコに明け暮れて10日という日が過ぎ去っていた。こうして60年という月日も過ぎていったのだろう。僕はいったい、何をしたいのだろう。お金欲しさにパチンコ屋に通いつめて、給料はつぎ込む、時間は浪費する、食いたいものを食い、一人エッチに励む。馬鹿っているんだな、と思う。「間に合うかもしれない、今なら」と歌ったのは吉田拓郎だった。離れられない。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』はゴーギャンの作品として知られている。年齢が様々な複数の男女が描かれている、不思議な作品だ。衣服を纏っている人もいれば、下半身に布を巻いているだけの男女もいるし、背後からとはいえおそらく全裸の人も描かれている。乳児は横たわり眠っているかのよう。文明的とは言い難いが、それは2024年の日本に生きているからに過ぎないのだろう。絵画は何をもって語られるべきなのか。
三好達治という詩人がいる。少し前の人だから、知らない人もいるかもしれない。詩が好きな人にとっては、有名なのかもしれない。彼の詩が印象的なのはなぜだろう。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」という2行の詩がある。なぜ印象的なのか。時間はおそらく夜だろう。二人の兄弟を眠らせたのは父なのか母なのか、それとも兄なのか姉なのか、寝息と雪がしんしんと降る光景だけは浮かぶけれど。
自分自身で最初に好きになったアーティストはおそらく松山千春だ。僕が中学生の頃だったと思う。『旅立ち』が最初だったか、それとも『季節の中で』が最初だったか。アコースティックギターの練習をはじめたのは長渕剛のおかげだろうか。全然上達しないギターを60になる今も、趣味としている。ギターを弾くのは楽しい。違う。松山千春を聴いていた頃は歌詞にかなりの重きを置いていたはずだ。けれど洋楽を聴くようになってから、音楽の楽しみ方が変わったように思う。
2024年10月に日本の衆議院選挙が行われる。先日、自民党の総裁選があり、石破氏が自民党総裁となった。誰を選ぶかというのはとても大事だ。頭の良い人もいれば、側近に優秀な者をおく政治家もいるだろう。日本の未来を託せる人間は誰か。そもそも現代日本に秀でたリーダーシップをもつ人材が必要なのか。水道が止まることがなくなり、停電もすぐに復旧するし、食べ物を豊富にある。それでも自殺者はたくさんいる。何を問題にすべきなのか。
人間は何処から来たのだろう。僕は母から生まれた。母はいま90歳を越えて、意識ははっきりとしている。ただ、体が弱っている。ベッドで過ごす時間が長く、一人ではトイレに行くこともできないし、お風呂に入ることもできない。耳も遠くなり、会話が成り立たない。筆記を試みたが、視力だろうか認識力だろうか、弱っている。忸怩たる思いで日々の暮らしを過ごしているのだろうか。僕がたまに顔を見せると、動く側の手で拳をつくって「がんばれ」と言っている。
水泳をしている。散歩をしても、ジョギングをしても長続きしなかったので、水泳をはじめた。糖尿病になったせいもあった。体が醜いというのもあった。でも、なぜ水泳は続いているのだろう。プールに行く時間帯に、子どもたちの教室みたいなのが行われており、その溌溂さに刺激されているのは一因だろう。筋肉質の男子にしても足の長い細い女子にしても、憧憬を抱くことも一因だろう。何より、高いお金を払っているというのも一因なのかもしれない。
先日、原発が必要と言う人がいた。原発がなければこれからのエネルギー問題はどうなる、火力発電もダメ、風力発電もダメ、原発以外に何がある、と言う。そうだな、と思う。豊かな暮らしを支えているのは石油であり原発なのかもしれない。産業は第何次という所まで来ていて、この先、人間は何の仕事をしていくことになるのだろう。音楽もいい。映画もいい。ゲームだっていいし、スポーツだっていい。楽しいことたくさんあるから、生きていける。それでも、原発って必要なのかな。
「戦争を知らずに僕らは育った」と歌った歌手がいた。杉田二郎なのかジローズなのか、どちらかだったと思う。「戦争はしたくないよな」と心から思う。なぜ人は人を責めるのだろう。答えは簡単で、人は人の思考に同調することができないから。もちろん同調していることもあるかもしれない。けれども同調の意味合いが異なるケースがよくよく見受けられるように思う。自分がなりたい自分になれるようにそれぞれにがんばっている。でもそれが他人まで巻き込む力を持っているわけではない。
みんなすごいな、と思う。今しがたyoutubeにてお笑い芸人の太田と上田が、ゲストを読んだり二人でだったり、ただ喋るだけの動画。素人が出ていても面白くなるし、俳優が出ていても面白い。これは話術の問題なのだろうか。分析すれば僕も面白い人間になれたりするものなのだろうか。いや、なれないな、と思う。話術はからっきりだし、話題も持っていないし、論理性もないし。でも僕も生きているんだよな、太田や上田と同じように、生きてるはずなんだけどな。
太郎は何処へ行けばいいかわからなかった。だから立ち止まり、空を見上げた。秋の快晴の空には白い雲が流れていた。薄く、広く。大きく息を吸い、少しずつ吐いた。何度か繰り返していると、心が軽くなったようで、口元に微笑が浮かんでいた。あの人気持ち悪い、と思われたかもしれない。それからおもむろに、歩を進めた。今は一歩ずつ進むしかないことを知っていた。だからと言って正解に向かって進んでいるのかどうか、太郎にはわからない。ただ今は、立ち止まっているわけにもいかないのだ。
次郎は部屋の中にあるあらゆるものを壊し始めた。最初に机の上にある筆記用具を具体的には鉛筆やシャープペンシルを。次に本を壊すというより破きまくった。小説でありノートであり教科書を破り、また破った。電気スタンドを壁に叩きつけた。タブレットをデスクトップの画面に投げつけた。タブレットを持ち直し、机の角にぶち当てた。スピーカーを壁に、アルバムをデスクトップの画面に。同じようなことを何度も何度も繰り返した。叩きつけて、破って、声にならない声を絞り出した。
プールに通っている。今日は2コースしか使えない時間帯にかかってしまい、いつもより人が多かった。いや、人数は変わらずとも、コースが少ないだけ、多く感じた。といっても、いつも二人なのが4人になったというだけの話ではあるけれど。それでも、ほぼ初心者の僕はついていくのが精一杯。ただ、それでも楽しいんだな、これが。スタイルのいい水着姿の女性もいるけれど、それは「スタイルいいな」という程度のもの。そういう人たちはたいがい、泳ぎも上手。だからそちらに目はいってしまうのだ。
よーこという名前を使いたいと思った。洋子もいいけれど、陽子もいい。葉子というのもある。変換技術の素晴らしさよ。だからというわけではないけれど、ヨーコにすることにした。ヨーコは水たまりの前で立ち止まった。右手には傘を、背中にはランドセルを背負っている。ここで、それはジブリの映画『となりのトトロ』に出てくる、妹を想像させた。姉の名前はサツキ、妹の名前がメイ。二人が父を待つバス停のシーンがある。なんて感動的なのだろう。それは宮崎駿がすごいのか?
ヨーコの設定をしなければならない。小説家や脚本家はみんな、この作業をしているのだろうか。それとも物語の中に当然のように湧き出てくるものなのだろうか。俳優や声優という職業があって、その仕事の中身がわからない。たとえば長澤まさみなんて、はじめて見たとき、なんだこれはという印象だった。『セーラー服と機関銃』だったと思うのだけれど、普通の場面ではまったくのセリフ棒読みだろうそれは、というのに、肝心な場面では迫力をきかせるというかどすをきかせて、すげえ、と思わされた。なんだ、女優って仕事は!
哲学の本が目の前にある。いつもそこにある。読み切らない哲学書。言葉ってどこからやってくるのだろう。いつから言葉が使われたのか。人間以外の生命はみな、言葉を持っているのだろうか。それとも言葉なんていらないとでも思っているのだろうか。「くさい」と言われて小さくなる人もいれば、きっと攻撃の機会を与えてくださってありがとう、心から感謝しますといって意気軒昂とする人もいるだろう。言葉ってなんだ?そもそも、生命ってなんだよ。
生命ってなんだ。きっと科学的な回答は用意されているのだろう。科学に精通しない人にとって、生命とはなんだろう。あるいは輪廻転生みたいな言い方があるかもしれない。でも、宗教に精通していない人にとって、生命とは何だろう。谷川俊太郎は詩を書いた。きっと生命とは生きているということなんだ。トンボの気持ちはわからないし鳩の気持ちもわからない。もちろん石の気持ちなんてこれっぽっちもわかりやしない。でもすべてのものに生命はあるのだと信じようとする僕はいったい何者だろう。
本日の夕暮れ時、空を見た。秋の雲が動かず、でっかくそこにいた。公園は広々として、緑がまだまだ残っていた。風が気持ちよく体を過ぎていった。ああ、幸せだな、と思った。公園には犬を散歩させている人が何人もいた。まったく込み合うことのない広さの中で、お喋りをしたりふわっと駆け出したり、そこここに安心が満ち溢れているような気がした。公園のすぐ横に、コスモス畑があった。花畑の中で女子二人組がずっと写真を撮っている。コスモスを写しているのかは知らない。ただ彼女たちはずっと、笑っていた。
5分の曲を20分かけて弾く。はたから見たらきっと、何を弾いているんだろうと思うだろうし、そんなんで何が面白いの、と思うだろう。でも、面白いものは面白いんだよ、と強く訴えたい。20分弾いたら飽きてくるし、ギターはやめて次の作業に取り掛かる。たとえばこの文章を書いたりしている。泳ぐのだって、はたから見たら何が面白いのそんなにゆっくり泳いで、と思うかもしれない。でも、楽しいから仕方ない。楽しければそれでいいんだ。
雨の中をヨーコは歩いていた。涼しげな口元に微笑を浮かべながら、激しい雨に打たれながら。長い髪はすっかり濡れてしまっていた。街に人影は少なく、ヨーコを振り返る人もいなかった。もし神様がいるならば、その困難をものともしない毅然とした歩き様に拍手をしたかもしれない。歩道を打って流れる雨、車道を激しくたたく雨、驟雨というのはこういうことだろうかと漠然とヨーコは考え、空を見上げた。目を開けたままではいられなかった。バイバイ、と呟いたように見えた。
今日も平和な一日だった。戦争は着々と準備されているけれど、僕の日常の中にその影は見当たらない。誰に責められるわけでもなく、誰を責めるでもなく淡々と過ぎていく日常。好きな音楽を聴いて好きな動画を見て好きな将棋を指して、負けても何一つ失うことなく。でも僕が前に出ないからそう感じているだけで、前に出ればすぐに打ちのめされてしまうことはわかっている。だから、何もない平々凡々とした日常がある。前に出るには僕には圧倒的に足りないものがある。
赤について、ウィキペディアから引用してみる(2024年10月26日時点)。「赤(あか、紅、朱、丹)は色のひとつで、熟したトマトや血液のような色の総称。暖色のひとつ。JIS規格では基本色名の一つ。国際照明委員会 (CIE) は700nm の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。」とある。実際にこれが赤、という基準はそれぞれにあるかもしれないが、信号の赤やトマトの赤は、そう異論はないかもしれない。
もう少しウィキペディアを見てみる。「丹(タン)が色を名指すときは赭土(シャド)、赤土の色」であり「朱(シュ)は、硫化水銀による赤色顔料辰砂の意味」また「緋(ヒ)は、濃く明るい赤色」最後に「紅(コウ)は、わずかに紫がかった赤を指す。キク科の紅花の汁で染めた色で、その発色成分はカルタミン」となる。視覚によりそれぞれはおそらく異なるものとして認識されているだろう。けれども言葉としてこれらを使用しているかといえば、怪しい。
意味が分からない。なんで3千円でパチンコは当たったのか。2万9千円の勝ちになった。なんでそれ以上の勝ちにはならなかったのか。意味が分からない。一回でも多くと念願したし、早めに当たってくれとも念願した。でもそれはいつものことだし。念願すれば勝ちを拾えるというものではない、はず。1万円投資しても勝たない時は勝たない。それなのになぜ?考えても詮無いこととは知りつつ、考えざるを得ない。勝つときは勝つし負ける時は負ける。でも、このままずっと勝ち続ければいいのに。
将棋の動画を毎日見ている。ネット上でコンピュータ相手に将棋が打てるサイトがあるので、こちらも毎日打っている。でも、上達しない。ずっと4級のまま。どうして上達しないのだろう。意味が分からない。毎日繰り返しているのだから、少しくらい上達してもいいはずなのに、上達しない。動画は二人でプロとアマが喋りながら、基本将棋を打ちながらの動画だから動きをもう少し知っていいはずなのに、知識量が増えない。意味がわからない。
あなたは今どこにいますか。僕が傷つけただろうあなたは今、幸せですか。僕は今日も一人でこの文章を書いています。読んでくれる人はいないだろう文章を綴っています。もし誰かが読んでくれたとしても、きっと何も響かないだろう文章を書いています。あなたに僕の声は届いていますか。僕にあなたの声は届いていません。どうにかして繋がりたいと思ってみても、何一つ繋がる要素が見当たりません。あなたは今、どこにいますか。どうか元気に幸せであることを祈っています。
夢ばかり見ている。山のような人に恵まれたいと思っている。でも現実には誰もいない。山のようなお金を持ちたいと思っている。でも現実には数か月分の貯金しかない。山のような力を持ちたいと思っている。でも現実にはみんなの3倍努力しないと普通になれない力しかない。夢ばかり見ても、何も現実化しない。どうすれば現実になるのか。それとも、何も持っていない今がとても幸せなのか。僕にはわからない。だってどうしたって夢を見たがるのだから。
バスで通勤している。中間地点付近に、不二家がある。不二家といえばペコちゃんだろうか。久し振りに不二家のケーキを食べていないことに気付く。だからと言って、途中下車してまで食べたいとは思わない。なぜ今、不二家が気になったのか、そっちの方が気になる。不二家といえば僕が子供のころからある、あったはずだ。もう半世紀にはなるんではなかろうか。この間、いかほど不二家のケーキを食したろう。美味しかったはずなのに、何も憶えていない。
静かに眠ろう。争いは激しく、みんなが生きることに必死だ。生きるためには言葉は意味をなさない。たとえば昨日の事故を目撃した人がいたとして、その人に事故の様子を聞くとしよう。「昨日の事故についてお伺いしたいのですが」と。その目撃者は答える。「事故って昨日、どこかで事故が起こったのですか」と。「あなたがその事故を目撃したことを見た人がいるのです」「それは人違いですよ」誰が嘘をついているのだろう。
今日が土曜日で昨日は金曜日。週休2日の僕にとってとても大切な金曜の夜から土曜日の夜。でも大概パチンコ屋で暇を潰すので、あっという間に土曜日の夜になっている。家族がいる人はいいよな、と考える。パートナーがいる人はいいよな、と考える。パチンコ屋とジムとスーパーとの行き来の途中で笑顔が素敵な人に何人出会うだろう。彼も彼女もおじいさんもおばあさんも子どもも幼児も、素敵に輝いている人たちに完敗。乾杯。
あなたは今日も素敵に生きている。youtubeはその元気な姿を僕らに届けてくれる。デジタルの進歩に感謝する。矛盾はいつもそこにある。デジタルの進歩は僕の自由を縛っているかもしれない。けれどもそれがあなたの存在を僕に届けてくれる。ひたすらに研究を重ねる姿は僕に感動を与える。無言で打ち込む姿に涙すら流しかねない僕がいる。異性であるにもかかわらずあなたは性的刺激を与えることなく、頑張れとメッセージを送っている。...ストーカーの思考になってはいないだろうか。
ずっと、二十四節気が気になっている。例えばこの文章を書いている十一月三日は「立冬」の前にあたる。節気で言うところの「霜降」にあたるということになるのだろうか。国立国会図書館の「日本の暦」によれば、霜降は十月二十四日頃とされていて、立冬は十一月七日頃ということ。霜降の頃の花はシクラメンやイロハモミジ、野菜はサツマイモ、魚は秋鮭というところ。サツマイモはイメージできるけれど、シクラメンや秋鮭は僕の生活には密接ではない。
1Kの部屋には机代わりにしている食卓テーブルとパソコンラック、服をかけることのできる箪笥と一人用の小さな水屋、それにパソコンと扇風機、コーヒーメーカーに炊飯器、Kには冷蔵庫、ベランダには洗濯機それだけ。服も一週間分食器も一人分、押し入れにある読まない本を除けば無駄なものは一切ない。冷蔵庫にも基本的にその日になくなるだろう食材以外には入っていないし、米もおいていない。食事は総菜を買ってくるだけ。ここで僕はどれだけ豊かな暮らしができているのだろう。
視線がいやらしいのだと自分で感じる。いつも誰かを見ている気がする。特に女性を。その視線がきっといやらしいのだ。確かに綺麗な女性は好きだし、スタイルがいいとなおいい。でもそれって、普通ではないのか。でも地下鉄やバスで他の男性乗客を見ていると、誰か女性を見ている人はほぼいない。見ているなと感じる時は、その人にいやらしさを感じる。つまり僕は彼であり、彼は僕なのだ。では見なければいいではないか、と言うかもしれない。それは今の僕にはできそうにない。
プールで、中学生だろうか高校生だろうか、九州大会に出れる出れないの話をしていた。目標を持つって素晴らしいな、と感じた。その帰り道、夜10時のコンビニの駐車場にて、高校生だろか、医学部に行こうか理系に行こうか、医学部はいくらかかる理系の就職先はどこがある、なんて会話をしていた。明日があるって素晴らしいな、と感じた。僕の明日には絶望しかない気がしているぼくにとって、それらの会話は非常に興味深く、勇気をもらえた気がした。
朧月夜/秋の夕暮れに月を見て/他に待ち人がいないバス停で僕は/その言葉を思い浮かべる/その季節はいつなのだろうと考える/帰って調べてみると/春の季語だという/僕の感性が間違っていた/言葉を知らなさすぎる/むかし広辞苑を買ったことがある/妻は僕にそんなものを買ってどうするの/と言わんばかりだった、気がする/そうではなかったかもしれない/妻の言う通りに僕が広辞苑を開いた回数は/10年で数度/両手で足りる/馬鹿っているんだよね、神様
今日もいい天気だ。散歩するには絶好の日和だ。でも僕は昔からこんな日もパチンコ屋に行く。そうして散歩日和とは裏腹に絶望を背負って帰途につく。それが僕の人生だった。過去形にしたい。でもなかなか現実は許してくれない。こういうのを依存症というのだろう。依存症ではない人たちは依存症の人を見てどんな感じを持っているのだろう。多様性という言葉で片付けようというのだろうか。自己責任という言葉で終わらせられるのだろうか。僕は今日、何をすればいい。
『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という本がある。そこには哲学者の名前がいくらか出てくる。議論に必要な名前なのだろう。それらの名前をここに挙げてみよう。トマス・ホッブス、ロック、ミル、バークレー、ウィトゲンシュタイン、ベイコン、デカルト、ウィリアム・オールストン、バートランド・ラッセル、H・P・グライス、ピータース、ジョン・ロールズ。これらは「第2章トマス・ホッブスの精神的言説」に登場する名前だ。だから、どうした?
11月10日の日曜日。立冬(11月7日頃)を過ぎて小雪(11月22日頃)の前。立冬は秋分と冬至の真ん中。冬の旬の野菜はカボチャや白菜。果物はリンゴや柿、キウイも。魚はカレイやヒラメ、カワハギ。このところ朝晩の冷え込みが強くなっていて、ああ冬か、と感じていた。相変わらず料理はほぼしない。季節に合った食材選びはなおさら。だからカレイが並び始めた、カボチャが出始めたとは思わない。どれも年中あるものとの認識。人間は発展しているのか?と自分をみて考えてしまう。
前世というものが僕にはあったのだろうか。あったとすれば、何だったのだろう。その時の僕は今の僕と同一だったのだろうか。蛙だったり花崗岩だったりするのだろうか。あるいはゴキブリやムカデだったりしたのだろか。ムカデだったら、殺虫剤を振りかけられたのだろうか、それとも自然死を迎えたのだろうか。死ぬ時、どんな気持ちだったのだろうか。記憶がないというのは、その僕と今の僕とは同一ではないという証明になるのだろうか。生まれ変わったら何かになるのだろうか。その時の僕は人間だったころの記憶を持っているのだろうか。
『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という本がある。「第3章ポール・ロワイヤルの観念」に登場する名前は次のようだ。アリストレス、アントワーヌ・アルノー、ピエール・ニコル、そしてポール・ロワイヤルは名前ではない。ノーム・チョムスキー、J・S・ミル、マールブランシュ、ロック、バークレー、ジェフリー・ウォーノック、デイヴィド・アームストロング、ミシェル・フーコー、ホルヘ・ボルヘス、カント、プラトン、デカルト、G・E・M・アンスコム、ライプニッツ、リュシアン・フェーブル、ホッブス。短いテキストの中でこの登場人物。
明日からどこへ行けばいいのかな、そんなことを毎日のように考えている。今週でこの仕事も辞めなければならないし、行くところもないし、どうしようかな。パチンコで毎日そこそこ買っていれば、それなりに暮らしていけるかな、突然大金が舞い込んでくれば辞めれるのに、いやそうなったら今の職場で新しい事業を立ち上げることもできるな、とすると明日から僕はどこへ行けばいいのかな。ぐるぐるぐるぐると、同じトラックを周回している。
犯罪を犯す人はどういう人なのだろう。あるいは逆に、犯罪を犯さない人はどういう人たちなのだろう。そもそも犯罪とは何か。チャップリンが映画で語っていた(と思う)、一人を殺せば殺人犯だけれど(戦争で)たくさんの人を殺せば英雄だ、というセリフはどうだろう。(ネット検索)。「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。」との結果。どうだろう。戦争って何だろう。人を殺すってどういうことだろう。
『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という本がある。「第4章バークレー僧正の抽象作用」に登場する名前は次のようだ。バークレー、ロバート・ボイル、ロック、J・O・ウィズダム、ニュートン、ホッブス、ユークリッド、デカルト、ウィトゲンシュタイン、プラトン、カント、ゲルハルト・ゲンツェン。哲学者ではない(と僕が思っている)名前も入っている。いつも考えるのだ、数学を思考するのと哲学を思考することの違いは何か、と。
「美しい」という日本語をその後に「ラテン語」と検索すると「pulchra」というアルファベットの結果が表示された。ラテン語って、アルファベット表記なんだ、と思った。次に「英語」で検索した。「beautiful」との結果。「スペイン語」では「hermoso」、「フランス語」では「beau」、「サンスクリット語」では「Laavanya」もしくは「Vārma」、「アラビア語」では「jamil」とのこと。そもそもどんな言語があるかもほぼ知らない。またそもそも「美しい」とは何を指しているのだろう。
人が普通に生きていくことは普通のことなのだと思っていた。犯罪は社会との関係から生まれるのかもしれない。犯罪を犯す人とそれを裁く人。でもそもそも「人」って誰のことを指すのだろう。「普通」とは何をもって定義されているのだろう。「生きる」は生命の維持のみを指す言葉なのだろうか。「思う」とはどういう心的状態なのだろう、あるいは身体的状態なのだろう。言葉をつなぐ言葉はどのようにして生じているのだろう。そこに変化はあるのか、ないのか。
Griegを聴いた。『Peer Gynt Suite #1』という作品。iTunesにて聴いているが、すべて英語表記で、何を指しているのかわからない。ネットしかもウィキペディア。『ペール・ギュント』作品23 は、ヘンリック・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』のために作曲した劇付随音楽。管弦楽のための組曲が2つ(作品46と作品55)編まれているとのこと。これらが有名だという。確かに聞いたことはあった。けれどもそれはGriegという名前と紐づけされていなかった。本当に漫然と生きているのだな。
竜王戦の解説を見ている途中。見たからといって、将棋が強くならない人もいる。もちろん、強くなる人たちだってたくさんいるだろう。解説を見ているとわかった気になる。でも、ああ言われればそうだし、こう言われればそうだし、どっちもどっち、他の可能性ももちろんある。大切なのは、最善と思われる手を指し続けるということ。失敗したらそこで振り返ることができる。振り返りが深くなるような気がする。次につながる一手を打つことがきっと大事なのだ。
どうなんだろう、女性との艶めいたことが59年の人生でほとんどない、という状態は。今日、ジムのロッカーで、ベンチに座ってスマホをいじっている人がいた。僕は何気なしに着替えを済ませ、その場を離れようとして、背中を向けて数歩動いた。その時ほぼ僕が気付かないだろうタイミングでその人が動いた。そして僕の使用していたロッカーの奥のロッカーを開いた。彼は僕が立ち去るのを待っていたのだ、ひとつもそんな素振りを見せずに。みんな、大人なんだな。
今日の食べ物を確保することはできる。明日の食料を準備することもできるだろう。明後日はどうだろう。人が生きていくのに、食べ物は重要だ。だから、みんな働いている。それは子どもを持つことにもつながる。愛する人の子供が欲しいから結婚するのか、性欲を満たした結果子どもを授かるのか、どちらにしろ自分の食料だけを確保することができれば良いというものではない。だから働いている。もっと絶望的な状況で働いている人もいるかもしれない、生きている人もいるかもしれない。
人間が生まれる。そこには親がいるだろう。人間が一人歩きするまでには数年は必要だろう。その間、親は子を守るために生きるだろう。食べ物を与えるために親は遠くまで行くかもしれない。そこには試練が待っているかもしれない。昆虫も同じことをしているだろうか。鳥類も同じことをしているだろうか。犬や猫はそんな時、人間にどんな協力をしてくれるだろうか。文化によって、その種類は変わるかもしれない。街には動物を見る機会は少ない。人間はどこまで動物を離れていくだろう。
KANというアーティストがいた。『愛は勝つ』という楽曲がヒットした。僕の結婚式で歌われていた。どういう仕組み何だろう、彼の他の楽曲をラジオなどで聴く機会があったとしても、そこから広がることはない。アルバムを聴きなおしてみようとか、ネットで調べてみようとか、そんな気分にはならない。いや問題は何がヒットするのか、ということ。メロディなのか歌詞なのか編曲なのか一定の人に伝わるから食べていけるアーティストがいる。それがヒットとなると、何が影響するだろう。
生活していて、何を大切にしているだろう。パチンコ屋さんに行くことが最優先事項で、時間も空間もこれを中心に構成されている。今ラジオを聴いている。なぜラジオを聴いているのだろう。ラジオを聴きながら勉強はできない。同様にラジオを聴きながら文章を書くことはできない。正確には自省よりも外部感覚が優先されて文章が構成される。魚料理の話題が出ればそれに、音楽がかかればそれに、音楽のリズムやメロディや使われている楽器に、引っ張られる。
「ぴよ将棋」というソフトがある。ソフトというか、ブラウザ上でコンピュータ相手に将棋を指すことができる。4級になって随分時間が経つ。3級に挑戦して勝つこともできるけれど、基本的には負ける。3級に負けるので、4級で勝負する。勝つ負けるの繰り返しでずっと3級の壁を破ることができない。たまに3級で勝つこともあるので、まったく歯が立たないわけではない。圧倒的に負けることが多いので指し方に問題があるのだろうけれど、将棋本を読もうとは思わない。そこが問題なのだろうか。
思春期の頃に自殺をよく考えた。色んなことが不安でしょうがなかった。友達関係がうまくいかないことが優先だったのだろうか。勉強が上手くいかなかったことが優先だったのだろうか。将来のことが不安だったのだろうか。どれもありうる。結果、そういう環境が普通ではなかったとはいえ、中学生高校生の頃は彼女がいなかった。彼女がいない理由はどこにあったのかは知らない。けれども59歳の今も休日に一人きりというのと共通項があるのだろう。戦えないのだ、昔も今も。
雑誌『暮しの手帖』については度々触れてきた。今回は「中国茶とおかゆ 奥泉」についての記事に触れたい。それは北海道上川郡東川町にあるという。googlemapで北海道を見る。函館、札幌、旭川、稚内と北上する。と、その旭川の南東に東川町の文字が見える。南下すると美瑛町、そして富良野の地名を読むことになる。東川町のさらに南東に大雪山国立公園の文字を読むことになる。旭川空港から車で約15分、大雪山の主峰・旭岳の麓にある町。それだけですでに清らかな魅力が伝わる。
彼は待っている/欲望を満たす日が来るのを/性的な欲望を満たしてくれる相手が突然現れる日を/自由になるお金が準備される日を/実現したい現実を作ることができる技術を身につける日を/そうして現実がまるっきり違うことに腹を立て、イライラした気分を抱えて食に走る日々が続く/病気を抱えているにもかかわらず/多少の努力だけしかしない/欲望を満たすための努力も/彼が思っているほど/行なっていない/僕らは彼にどう接すればいいのだろう
好きな人がいるの/今は届かない想いしかないけれど/この気持ちを伝えたい/好きだよ傍にいたいよたくさん話したいよ笑っていたいよ/すれ違うたびに/心はドキドキ/うまく動かない体/気付いてくれるかな/告白しようかな/昨夜ベッドで一緒に行くだろう温泉旅行のことを考えた/どこに行くどこに行きたい/どこでもいい/あなたと一緒に過ごせる場所ならば/あなたと一緒に時の流れを感じることができれば/会いたいよ今すぐ
お皿を割った。落として、割れた。キッチンは狭くてすぐにゴミや使用済みのお皿などでいっぱいになる。その状態で、落ちるかな、と思いながら惣菜をお皿にうつそうとした。瞬間、皿は落ち綺麗に割れた。思い出の陶器のお皿だった。割れてすぐ、元妻のことが浮かんだ。とっくに忘れてしまわなければならないほどに昔のことなのに、未だにそのお皿を思い出の一品に仕上げている僕はなんてみじめな存在なのだろう。僕は明日、どこへ行けばいいのだろう。
君は王様かもしれない/君の言うことに周りは反対しないかもしれない/君の思想は周りの思想と一致しているかもしれない/反対に一致していないかもしれない/君が王様であるという時点で/その世界は平等ではないかもしれない/大統領は王様だろうか/首相は王様だろうか/国王は王様だろうか/僕らの知っている歴史に登場する王様は/虐げられる民と/虐げる王様/という対比で考えられたものかもしれない/いつか王様という単語は言語から消えるかもしれない
テレビとSNSのどちらが正しいかが論じられている気配がある。兵庫県知事選挙の結果から言われているのかもしれない。何が問題なのだろう。真実はどこにあるのか、ということが問題なのだろうか。そもそも真実とは何か、僕は知らない。少し前、日本の元首相安倍晋三氏が亡くなった事件があった。安倍氏は死んだのだ。元首相が殺されるというのは不自然だ、と考えるのは不健全だろうか。危険と隣り合わせの職業だからSPなどがいるのではないか。裏を勘繰るのは仕方ない。
夢はあるんだ/今日という日にさよならをして/明日という日に生まれ変わるのだと/昨日までの自分にさよならをして/明日からの自分に夢を託したいんだ/やりたいことを実現するために/でも今はその時期ではないのかもしれない/何も手にしていないから/ただ虚無感だけが僕の心に広がっているから/けれどそれは違う/僕は僕の心に希望の灯を灯したいんだ/いつも笑顔で明るくいたいんだ/希望を胸に明日という日を生きていきたいだけなんだ
そうしてあなた方が勝つんだ。あなた方とは誰か。微小な世界で勝つ者がいる。それをAとしよう。Aの集まりは微小な世界を少しだけ大きくしたもの。そこでまた勝つ者がいる。これをBとしよう。Bの集まりはその前の集まりより少しだけ大きいだろう。ここにも勝つ者がいる。これをCとしよう。それは段々と膨れ上がり、それは膨張し続ける。僕はそのどこにいるだろうか。見えない形で勝者は存在する。そして自分の居場所を確保するために、みんな生きている。その生き方よ。
背が高くてカッコいい男子がいる。まあ、モテるんだろうな、と思う。さりげなく紳士たるオジさんもそうだろう。お金を持っていればなおさらか。そういう人たちはそれなりの努力をしているのだろう。まあ、僕はそうはなれない。だから逆に、僕はそういう女子に憧れる。若い子もいれば年を召されている方も、いる。けれど物欲しそうな目で眺める僕は、きっと憐みの目で見られているのだろう。言われたことはないが、言葉の端々に、態度のそこここに、それを感じる...誰も僕のことを気にかけてはいまいが。
いくつかの思いを胸に仕事をしているアナタ/昨日よりは今日が素晴らしいのかもしれない/今日よりは明日が素晴らしいかもしれない/ひょっとすると今日を平凡に生きていく生き方を満喫しているかもしれない/バス停に立てば夕暮れの空に月が浮かぶことに心を奪われるかもしれない/土砂降りの後の虹に目を奪われるかもしれない/虹は幾重にもかかっているかもしれない/日常にありふれた景色を愛おしく感じるようになる日が訪れるかもしれない/たとえ昨日に底辺を彷徨っていたとしても
二日といいことが続かない。期待したらいつも期待外れの結果に終わってしまう。まあ、それでいいんだけどね、という気持ちと、なんで俺だけいい日が二日と続かないんだ、という気持ちと。他の人がいい結果を出し続けてるかどうかは知らない。..パチンコの話。いや、パチンコだけではないな、期待すると外れるというのは。その物欲しげな視線が気持ち悪いのだろうか、みんなが僕のことを避けているような気がする。気のせいではないらしい。なんだかな、だ。
自分では完璧なつもり。でも、他と比べたら全然いけてない。自分ではレッスンが進んでいる感じ。でも、次のステップに行くと全然いけてない。まあ、仕方ないかとも思う。独学ですることの限界はいつもそこにある。教科書には多分、正解が掲載されている。けれど、正解を読んでも、現実にすることはなかなか難しい。モチベーションだけはあっても、もう一歩、踏み出す勇気が必要なようだ。どこまでできるか、やるだけ、だけどね。
これからどうするか。私は、私である。金儲けに成功している人たちはたくさんいる。金儲けがしたいのか。したい。時々、一代で財を成す人がいる。古くは松下幸之助、パソコンの世界ではビル・ゲイツ、appleのスティーブ・ジョブズも有名かもしれない。日本で言えば、有名どころでは三木谷氏か、孫正義氏か。誰が成功しているのだろう、誰が失敗しているのだろう、その陰にはどれだけの人がいたのだろう、僕は何を言いたいのだろう、君は今、生きている実感を噛みしめているか。
父がいた。数年前に亡くなった。僕も年を取り、父とは疎遠な仲だった。何か影響があったのかどうかはわからない。意識的に似ているな、という部分は思い当たらないからだ。それでも、たぶん似ているのだろうな、という所には心当たりがある。たとえば体操をするとして、全然本気ではない。というより、全力で体操することはできなくて、リラックスし過ぎての体操という印象がある。本を読んでいても、何かを読破して何かを掴むという雰囲気ではない。何事にも全力で当たることができないという点で、似ているのかもしれない。
母がいる。母は今、ほとんど寝たままの状態で生活している。耳も遠く、音声での会話は叶わない。筆記での会話が成り立っていた時期もあったが、視力も落ちているのかそれも叶わない。だからといってコミュニケーションがとれていないかといえば、そうではない。右半身を使うことができないので、僕が顔をみせると、左手を挙げてくれる。それは「こんにちは」でもあるし、「来てくれてありがとう」でもある。ただ感謝しかない母に、僕は右手を挙げて応える。
長兄がいる。多分七つ離れている。一年に数度、会うことがある。迷惑かけっぱなしの人生だったから、僕からはあまり話しかけることができない。何を言っても信用してもらえてないことが分かってるから。長兄からしたら、違うかもしれない。すっかり許しているのかもしれない。けど、僕の気分としてはそういう訳にはいかない。だから、どうしても口をつぐんでしまうことが多くなる。60歳にもなって何を考えているんだ、という気がしないわけでもないが、人間年を取ったからといって聖人になれるわけではない。
次兄がいる。遠くに住んでいる。妻と二人暮らしだという。次兄は母に毎日電話をかける。ほんの数度のやり取りだけれど、それはどちらにとっても意義深いもののようだ。小さい時から今まで、一緒に遊んだ記憶はない。世慣れた人で、僕にも気軽に話をしてくれる。誰かのことを強く悪く言うこともない。きっと、仕事もできるのだろう。家族の中では一番の出世をみせている。けれどそれを鼻にかけるでもない。できた人間って、いるんだな。
姉がいる。母と二人暮らしだ。ほぼ、子どもの頃の記憶はない。いや、小さい頃の記憶はいくつかある。ただ遊んだ記憶がない。おそらく、一緒に遊んだことはないのではないか。年が近いせいで、何となく、学校でどんな風に過ごしていたかはわかるけれども、それ以上ではない。いま年をとって、母の介護をする年齢になっている。毎日、ありがとうと伝えたい。どれほど感謝しても足りるものではない。僕に何かをしてほしいとは考えてはいないだろうけれど。
弟がいる。体が弱かった印象がある。でも今は逞しく生活している。迷惑ばかりかけて、本当に申し訳ない。小さい頃に遊んだ記憶はあまりない。中学生の頃だったか、勉強を教えようとしたことがあった。教え方が下手だったのだろう、成績が上がったという話にはならなかった。学年は近かったけれど、兄らしいことは何一つしてやれなかった気がする。弟はどう思っているかな、大人になって、今さら子供の頃の話をされても困るかもしれない。
歌詞に最初に感動したのは誰だろう。最初に感動して50年は経つだろうか。小学生ではまだ、歌詞に感動した記憶はない。たとえば中島みゆきの『エレーン』という楽曲がある。その中に「エレーン生きていてもいいですかと誰も問いたいエレーンその答えを誰も知っているから誰も問えない」という一節がある。多分僕が中学生の頃の歌。テレビで桜田淳子や研ナオコが中島みゆきの曲を歌っていた頃のこと。中島みゆき自身はテレビには出てなかったような気がする。そういえば桜田淳子の歌う『化粧』は良かったな。
松山千春もよく聴いていた。何枚目までかな、レコードも買ったりしていた。『大空と大地の中で』や『足寄より』が好きだったな。「もどっておいでよこの町に都会の暮しに疲れたらあいかわらずのいなか町それでもお前の故郷だろう」という歌詞。中学生がなぜこの歌詞に心ひかれたのかわからない。松山千春は大人になって、少しだけ感傷的な気分もあったのかもしれない。けれど中学生って、夢と希望でいっぱいなはずなのに。その裏には友情を信じていたり、不安を抱えていたりしていたからなのかな。
幸せを探している/白い馬に乗った王子様を待つのは女の子/甘い言葉に騙されるのは誰/わがままをきいてくれる男子を探す女子もいるかもしれない/世界中を飛び回って理想の相手に出会う人もいるかもしれない/wowotonaightと叫べば夢が近づいてくるかもしれない/酒に溺れていい人に出会うかもしれない場末のスナックで/ガソリン満タンにして高速を走れば幻を見れるかもしれない/死んでみるのも一つの手だろうか/手負いの獅子は手に負えない/今という時を大切にすること/流浪の民は安住の地を探している
地球がある/地球の外には月があるという/月より遠くに金星や火星があるという/視覚で捉えることのできる世界がそこにはある/数字がある/数字は式の中にあてはめられる/太陽はもっと近い存在だ/太陽が見える時間帯と見えない時間帯には大層な違いがある/数字はいま視覚で捉えられないものを予測することができる/感覚的に認識されて/予測された事柄の正しさが証明されることがある/人間は一生懸命目前の問題に取り組むことができる/明日人間は何を考えているのだろう
夜中に目覚める/今が何時なのか気になるのは平日固定時間の仕事についているせい/休日前になると決まって左奥の歯なのか歯茎なのかその辺りに痛みがやって来るそれはどういう理由だろう/何もすることがないのでyoutubeを見る/人間が目覚めているときに何もすることがないってどういうことだろう/別に食料に困らないならば何をしてもよくて何もしなくてもよいのに/暇だとよからぬことを考えてしまう/よからぬことをする必要もないのに
スイッチバックという語に惹かれる/鉄道で急勾配を登板降板するための仕組みらしい/興味をもつきっかけがどこに落ちているのか/僕にはわからない/天才と呼ばれる人たちもいるけれど/彼らの抜きんでた技術がどこにその原因をおけばいいのだろう/競泳選手の早い人たちは一歩先を行っている/その先に世界記録を塗り替える人たちがいる/何をどうすれば何が実現されるのか/東京大学に進学する人たちの回路も理解できない/理解できないことが多すぎる
半日家の中にいる。滅多にないことだ。大概セブンイレブンに行ったりパチンコ屋さんに通ったりしているから。時間が過ぎない。でも一方でやりたいこともたくさんあって、それをやったりしているけれど、全然進まない。僕のやりたいことは本当にやりたいことなんだろうか。ひとつのことに向き合う時間が短すぎる。5分ともたないのだ。窓の外は雨が降っている。住宅を立て直す音が聞こえる。カンカンカン、と。ご苦労様です。そして、お幸せに。
いつになったら気づくのだろう。自分がモテる男ではないということに。というかこんなことを話題にしようとする自分っていったい何者なのだろう。モテると言われる男はそこら中にいるし、いい女を手に入れたいと考えて手にした男もそこら中にいる。それを公言する人もいればしない人もいる。そうして生きているのだ、彼らを羨ましがっても始まらない。戦ってもないのに悔しいもない。自分では戦っているつもりなんだけどな。
欲望の塊。ある女性とセックスしたいと考える。男の一部はきっとそんなことを考える。僕もそうだ。大金持ちになりたいと思う。人間の一部はきっとそんなことを考える。僕もそうだ。美味しいものを食べたいと考える。生物の一部はきっとそんなことを考える。僕もそうだ。僕という人間の思考は僕という人間の一部であるかのように考える。けれども自由にならない世界がある。それは躓かないはずの場所で躓くときに切に感じる。僕っていったい誰だ。
映画は何で構成されているのだろう、と観察者の目で見始める。ものの一分もしないうちにその思考は拭われ、映画の世界に入り込むことになる。なぜだろう。例えば演技の下手の俳優が出演しているならば、それを演技として見てしまうがゆえに、入り込む、ことはできない。俳優の演じている役以外の要素が何等か感じてしまうことがあるからだろうか。例えば美術の一部が作られていると感じる時もそうかもしれない。
SNSと呼ばれるものが流行っている。使いようによっては便利だけれど、使いようによっては危険なものだ。なぜか?それを考えなければならない。包丁は料理に使うものだけれど、それで人を殺すこともできる。SNSは人を殺しているだろうか。人の一部を殺している、という言い方は過激だろうか、だとすれば抑圧しているという言い方でも構わない。それは自由に言葉や画像がやり取りされる反面、そのせいで何もやり取りすることができなくなる。
さようならと君が言った/もう一緒には暮らせないと/信頼している人に裏切られた気持ちはどのようなものだろう/最初から人を信じていない僕にはその気持ちは恐らくわからない/男女の間ではよくある話かもしれない/異性ではなく同性だったらどうだろう/違うそういうことを言いたいんじゃない/信頼について語りたいのだ/いつも逃げ出すことを優先して考え生きている僕に信頼という言葉を語る資格はない
政治について語ろう/日本には首相という立場の人がいる/首相というのは国会議員によって多分選出される/国会議員を選ぶのは国民だ/国民は考える力を持っている/けれど細かい部分までは見えない/お金がどのように分配されているのか大枠での捉え方をせざるを得ない/そこで信頼できるだろう人を選ぶ/一昔前ならば地元にお金を落とす人を意味していたかもしれない/どうすれば地元にお金を落とすことができたのだろう/地元は地理的地域だけを意味するわけではない
色の和名を挙げてみる(と言ってもネット情報だが)。藍色、藍鳩羽、藍媚茶、相済茶、相墨茶、藍鉄色、藍鼠、藍海松茶、青、葵色、青朽葉、青白橡、青竹色、青丹、青鈍、青藤、青緑、青紫、青柳、赤、赤支子、赤朽葉、赤白橡、赤橙、赤丹、茜色、赤紫、灰汁色、浅緋、浅蘇芳、浅葱色、浅葱鼠、浅縹、浅緑、浅紫、小豆鼠、天色、亜麻色、飴色、菖蒲色、洗柿、淡藤色、杏色。あ、だけでこんなにある。
2024年も最後の日になった。どうだろう、今年はどんな年だっただろう。山のような人がほしいという願いは微塵も実現しなかった。山のようなお金も、山のような技術も何一つ手に入れることなく12月31日を迎えている。何をしても中途半端で、まあだからこその結果なのだけれど。それでも健康に生きていくことができたのは両親はじめ家族の暖かい援助があったから。ありがとうございます、と改めて感謝したい。
今年も元日の今日、コンビニエンスストアにある新聞全紙を購入した。一件目には朝日新聞しかなく、今年は売り切れが早いなそんなに部数も刷っていないのかな、などと考えつつ歩いていると読売、産経、日経、毎日、西日本の各紙を手に入れることができた。毎年のように購入しているけれど、毎年ほぼ読むことはない。購入するだけで満足してしまうのだ。新聞を読んで人に話せるだけの知識量の人たちとは違う。俺って馬鹿だな、と思う。
アーティストってなんて凄いんだろう、と思う。アーティストって誰、と問われるかもしれない。例えばジブリの作品を制作した人たち。例えば街のイラストレーター、例えばライブハウスで歌っている人、ギターを弾いている人。例えば書道家。例えば文筆家。例えば詩人。例えばマジシャン。筆頭にいるのはマイケルジャクソン。誰もかれも見ず知らずの人たちの心を鷲掴みにして、放さない。そこに立たせて、凝視することを強いる。彼らのパワーの源は何だ。
戦後80年が経つという。毎日新聞の一面に「さび付いてしまった民主主義」という言葉があった。この前後にはもちろん文章があるのだが、この一言に引っ掛かってしまった。何を今さら民主主義の錆具合について語ろうとしているのかと。民主主義がどのようにどこで定義されているか知らないが、それは多数決以外の何物でもない、と僕は捉えているからだ。ある集団に属しているとよくわかる。おかしい提案でも、何らかの理由で採用されることはよくある話だ。それが「民意」なのではないか。
なんで煤のご飯が金平糖なのだろう。『千と千尋の神隠し』を見ていて素朴に思う。観客の驚かせ方、セリフ、眼の輝き具合、顔の表情の作り方、煤の感情の表し方、一体何をどう研究すればこんなにも魅力ある作品を作り上げることができるのだろう。人間ではない人間のような人、人間ではないけれど言葉を、しかも日本語を話す人、その気持ち一つ一つは明らかにその思考や感情を共有できそうな気がする。何がこんなにも創造的にさせるのだろう。
韓国の大統領に「内乱首謀疑い」で韓国当局から逮捕状が出された。さて、このニュースをどう読むべきなのだろうか。韓国についての情報を僕は持っていない。それは社会面でも経済面でも政治面でも。その情報のない僕がこのニュースを聞いたところで、はいそうですか、という感想しか持たない。韓国当局に正義があるのかそれとも大統領に正義があるのか、判断できない。判断できないから判断できるだろう評論家の意見に賛同することもしばしば。僕はいったい生きている意味はあるのだろうか。
ひとつの作品にはどのような思いが込められているのだろう。中島みゆきに『ファイト』という作品がある。いい歌だな、と思う。どこがいいのだろう。語り手はおそらく少女、大人になった少女。彼女は懸命に生きようとしている。その歌を笑う人がいる。どうして懸命に生きちゃいけないのだろう。笑うのも勝手だけれど、笑わなくてもいいじゃないかと思う。素直に、人の人生をないがしろにする奴を許さなければいいのに。多様性って、なんだ。
デモクラシーという言葉を久し振りに聞いた気がする。「大正デモクラシー」は学生の頃に聞き知った言葉だが、その意味するところを学習した覚えはない。自分を基準に考えて世の中を測るほどにできた人間ではない。むしろ世の中の誰よりおそらく自分自身が孤独だと感じている。それは誰からも相手にされない可哀相な自分を演じているからに過ぎない。それは誰よりも独善的ということを意味している。だから、他人の目が他者の振る舞いが気になるのだ。
パチンコ屋さんで5時間もそれ以上も時間を費やしている時、考えていることは何だろう。費やした先に考えることは何だろう。その嫌悪感はマスターベーションをした後に感じる嫌悪感と同じだろうか。似ているけれど違うものだろうか。それに対してひとつの作品を鑑賞しているときに考えることは何だろう。鑑賞し終えた後の感情の高ぶりはどこから来るだろう。そこに自分への嫌悪感の入り込む余地はなく、ただ作品や作者に対する尊敬の念にだけ満たされる、というのは綺麗ごとだろうか。
国連について何を知っているだろう。国連に何を働きかけているだろう。無力な一市民のできることって何だろう。国民一人一人の力の集結がその国の力だとすれば、日本は世界に対して何をすることができているのだろう。僕は日本国に声を挙げているのだろうか(きっと挙げている)。世界の平和(僕の平和やあなたの平和)のために、平和を守るための戦争があるのかもしれない。僕も、自分の身が危険にさらされれば戦うから(それが集団になった時に戦争が起こるのだろう)。
「自国第一」か「人道第一」か。ウクライナも、パレスチナも戦争の相手国が傍目には強力すぎる。なぜそんなに解決しないのか。僕がロシアやイスラエルを強大だと考えているのが間違いなのだろうか。どちらもロシアは自国のみでイスラエルは後ろ盾となる国々を携えて戦争を終結させるだけの力を持っているのではないか。あるいは共に生きていく道を示すことができるのではないか。なぜそんなにも戦いを長引かせるのだろう。そこでは多くの命が失われているというのに。
「暴力と憎悪の連鎖」があるとすれば。日常的に暴力は行われているだろうか。僕が高校生の時、言葉の暴力にとても敏感だった。いつか僕は言葉を失い、友人の一人もいなくなった。他者の言葉も自身の言葉も何も信じられなくなったのだろうか。僕自身はその行動がすでに信頼されていなかったから、信頼されようにも僕自身の言葉に耳を傾ける人もいなくなった。それでも生きなければならないのだ。苦悩からいつも逃げ出すようにしてでも。生きてるだけで丸儲け、という言葉を信じて。
ずっと肩に重くのしかかっている記憶/いま誰かに「悪霊払いしましょうか」と言われた/気付かないわけない/その誰かは僕の記憶を知っている/現在を生きていない僕のことを/ただ笑ってるだけ/救われたいと思っている/でも救われなかった過去はさらに積み重なり/重い記憶は顔の表情まで固まらせてしまう/救いが欲しいのは僕なんだ/誰かを救いたいのは僕が救われたいから/そのことをみんな知ってるから誰も僕に近づかない
「秩序作り」と言われても、と思う。世界の秩序を作る、安定的な秩序を構築する、戦争のない秩序ある国家間の関係を築くそのために国連があるのではないか。その責任ある役割を担うのは日本だけではない。世界の国々それぞれが対等に対話する術を持っていなければならないだろう。例えばAさんが職場で、B酸にある役職を与えてもらったからAさんはBさんの言うことなすこと、にすべて従わなければならない、というのはおかしい。「何か」に反する場合、対等に意見ができなければならない。
「恐怖・欠乏」また「尊厳を持って生きられる自由」という言葉が使用されているのは毎日新聞。短絡的に考えたくはない。が、2024年の日本でも人間関係における「恐怖」はそこにある。同様に「欠乏」も。一方で金儲けを考える人たちがいる。彼らは金儲けが目的だから、金を使った人がどうなろうと知らない。甘い言葉に踊らされて、お金を使い、借金までして使い、どこの毛までむしり取るというくらいにお金を使い、待っているのは「欠乏」そして「恐怖」。国家間の問題だけではない。
毎日反省しなければならない。反省するようなことをしているから。大人になって反省するってどういうことだろう。今日もパチンコ明日もパチンコ昨日もパチンコ。本当にやりたいことは他にあると思っているのは僕だけで、僕は本当はただパチンコをしたいだけなのではないか。こうして文章を書くことをしたいと言いつつ、パチンコに勝って気分がいい時だけ文章を書いている気がする。それは勝つのに慣れていないからなのか、どうか。もう、何をしたらいいのかわからない。
朝が来る/朝がやって来る/朝はどこからやって来るのだろう/遠い宇宙の果てからやって来るのだろうか/それとも朝は地球が回っているせいでやって来るのだろうか/惑星も恒星もそこら中で運動がおこっている/海には生き物がいる/陸にも生き物がいる/生きているとはそういうことだ/気分がふさぎ込むほどに嫌な出来事があるかもしれない/気分が高揚するほどに好ましい出来事があったかもしれない/僕は明日どこへ行こう/君は今どこにいるだろう
60年も生きてきたのだ/父に感謝し母に感謝し/けれど60年の思い出を振り返ることはない/幸せな時間があったかもしれない幸せでない空間があったかもしれない/今となっては何が良かったのか悪かったのかさえわからない/子どもでもいれば少しは違ったかもしれない/成長過程を辿るとき/自身の体験を振り返ることがあったかもしれない/生きている現在をもっと有り難く頂戴していたかもしれない/あなたは今、幸せですか
芸術に触れたことはありますか/文化に触れたことはありますか/子どもの頃、地域の祭りを楽しみにしていた/1970年代だったろうか/それは神輿や獅子舞や屋台や行列の練り歩く記憶として残っている/今もまだその祭りが残っているのかは知らない/2020年代の地域の祭りはそれに比べると寂しい/規模を大きくすると福岡ではどんたくや博多山笠を挙げることができるだろうか/けれどそれは子どもの頃の記憶としてある祭りとは異質な気がする/そうは言ってもそれが2020年代の日本の祭りなのだ
天皇陛下について批判的な文章を見ることはあまりない。というより、見た記憶がない。これは健全なのだろうか。天皇陛下の役割について、憲法にうたってある以外ではピンとこない。ニュースや新聞記事ではどこそこを訪問されたなどの様子が報じられているけれど、それ以上でも以下でもない。国民主権と言いながら、その枠から外れた形で存在しているような気がしてならない。特殊な存在が必要な時代があることを否定はしないけれど。
Red Hot Chili Peppersの『Can't Stop』と続けて布袋寅泰の『DREAMIN’』をyoutubeで見た。まずはyoutubeに感謝する。そして、音楽の力を感じた。いつも書いていることだけれど、楽器を弾くことができるってすごいな、と思う。その上、人を感動させることができるってなお凄いな、と。才能もなく努力もしない人間が言うのもおこがましいけれど、彼らはそれだけで存在価値があるのだ。生きることの素晴らしさを表現できるのだから。
能登地震で家を失った人の記事を読む。夫や子どもたちのいる(いた)暮しに羨ましさを感じる。本人は泣いた時もあったというが、幸せなのではないかと考えてしまう。ただ自分が家を失ったらどうだろう。1kの借家での一人暮らしをしている60歳の身には悲しさも起こらないだろうか。だってその人には家族がいるじゃないか、と思うくらいだから。けれど僕が避難所だったり仮設住宅だったりで暮らすとしたらどんな気分で過ごすだろう。みんな一生懸命に生きているのに、僕は人の痛みに気付かない。
人間であること、生きているということ。僕は虫を殺します。すまないと言いながら、多少のためらいがある中で、虫を殺します。手で直接潰す時もあれば、殺虫剤をこれでもかというくらいに振りかけて、虫を殺します。僕の生命と虫の生命とどのように違うのでしょう。僕は虫を殺します。痛みは感じるものの、多少の痛みであり、耐えられない痛みではありません。だからといって僕の生命を脅かす人(事)に寛大になれるものでもありません。僕は死にたくはないし、痛みは避けたいのです。
よくわからない/この出だしは何だ/やったらいけないこと/日本語っぽいけど理解できない言葉/競争って今の社会でもあるんだ子どもたちの間でもそもそも子どもたちなのかな/悔しい気持ちを持つこともあるんだ/手のひら返しも簡単に/英語の響きを生かしてるのか意味のないような気がするけれどそれが意図だったりするのかな/できることを見せる前に、戦わずに済むのならその方がいいでもその前にきっと戦っているのだろう/よくわからないまま途中でジエンド
突然死ぬんだな/まさかそんなに突然僕の目の前からいなくなるなんて/うまい飯食ったなうまい酒飲んだな/兄弟姉妹仲良くやってくれてうれしかったな/苦労もあったけど楽しかったな/時々住んでた町のことを知っている人に会う/うれしいな/今はいない母ちゃんや娘に会えるのかな/もう会えないのかな/この気持ち誰にぶつければいいんだろうな/ぶつけようもないけど問題にしてもいいことがあるんじゃないか/天国にいる二人に地獄に行く僕は会うことはできないのかな
恋なんていつの時代もあるのだろう/誰かに会いたいなんて思いも/想うだけで切なくなる瞬間は突然やって来る/その時、あ、恋してる、と知るのかもしれない/だってどうでもいい人のことなんて考えもしないのに/あなたのことはずっと想っていられる/さようならと告げられても/それが信じられない/だって私は(僕は)あなたのことを今もこんなに恋焦がれているのだから/思い出を消すことはできない/忘れることはできても
かみさまっているのかな/まいにちなんのためにいきているのかわからないぼくに/かみさまはなにをもとめているのかな/そもそもぼくはぼくになにをもとめているのかな/なにひとつおもうようにいかないで/なにひとつどりょくもしないで/ゆめばかりみているぼくにとって/このげんじつせかいはどんないみをもっているのかな/だからかみさまがこのせかいをつくったのだとしたら/こたえをおしえてほしい/(あなたにはちちがおりははがいる)/(あなたはせかいをみることができる)
ねこがいた/まよなかすぎのどうろにとびでてきた/ぼくはびっくりした/おそらくねこもびっくりした/ぼくをおいこしたあとで/なんどもなんどもぼくのほうをふりむき/それからたてもののかげへきえていった/のらねこなのかかいねこなのかわからない/どちらでもかまわない/それからぼくはこんびにえんすすとあのちゅうしゃじょうでたばこをすった/くるまがなんだいかとまっていた/まよなかすぎのじかんたいにしずかにくるまはとまっていた
ゆめをみる/ゆめはげんじつではない/けれどげんじつのようなかたちをしている/こえやかたちやうごきが/それはどのせかいにぞくしているのだろう/げんじつとそうぞうとゆめと/きょうかいはどこにあるのか/ぼけということばがあったにんちしょうということばにかわった/にんちしょうがいつのまにかふつうのことばになりつつある/ことばはかわる/かわっていくことばについていくのがこんなんになったときぼくはどんなふうにあつかわれるのだろう
馬鹿っているんだな/ずっとここに、いるんだな/あなたは何も知らないかもしれない/でもここに馬鹿がいることはきっと知っている/だから何の指摘もしないし関係もしない/だって馬鹿には何を言っても同じだから/馬鹿にかかわるほどみんな暇じゃない/僕のどこが馬鹿かって/言わなくてももうあなたは知っている/さあ、明日からどうする/明日からどこへ行く/どこも行く場所もないな/どうしよう/四面楚歌
今この時を大切にしよう/明日ぼくはいなくなるかもしれないし/ひょっとしたら君が、僕の目の前からいなくなることがあるかもしれないから/星の瞬きは何年前のもの/今この時が、未来の僕たちを照らすかもしれない/だから、今こうして二人で寄り添い呟き笑顔する時がとても愛おしい/こんなこと言うと君は笑うかもしれない/でもいいんだ、僕が今この時を幸せな気持ちで過ごしているように/君も幸せであることを願うよ/さようなら、昨日までの悲しい過去に/そしてありがとう、今日からの二人に
何を語ってるんだろ/かっこよさって何だろ/踊る君は素敵だけれど、それだけのこと/イメージを押し付けても何もないはず/なのに君も彼も彼女もそいつもこいつもどいつも/言葉は今どこにある/論理は今なんに拠っている/瞳の奥の嘘は拾った言葉でいっぱい/見つめることもできない/目がくらむのか心が揺らぐのか魂は耐えられない/ねえ、もうそろそろ飽きが来てもいいんじゃないかな/酔いを醒ますには絶好の季節絶妙なタイミング
瞬間を切り取る。外界の認識があって、内面の認識があって、関係する物があって、感想を述べる。世界の中にある自分を客観視して、それに対峙する物事を意識の俎上に載せる。載せられた物事は私という存在を支えてくれるもの。そこには他者がいる。時間が働いて、現在は過去を取り込む。過去は同様に瞬間が切り取られ、外界と内面との認識は全体として対岸に置かれる。そこにいる私は今ここにいる私ではない。
見出しだけで意見を言うことができる。中身は知らなくても、構わない。だって大概のことは抽象的な言葉に集約されるから。例えばスピーカーが僕の机に置いてある。それは白い筐体をしており、前面と後面が黒。僕はそれについてそれ以上を語ることはできない。けれどもそれを僕はスピーカーと認識しており、それ以上それについて知る必要がない。僕の持っている知識はそれだけだ。音質が良いとか悪いとかは別の問題だ。
スピーカーについて検索してみる。知識を提供してくださる方々、ありがとうございます。結果をコピペすると「オーディオシステムの中でもスピーカーは、オーディオにおける音の出口。収録された音楽の信号がアンプを通り、最終的に耳で聴くことができるように空気の振動にする大切な役割を果たす装置。(引用先)」。これだけで、スピーカーに対する認識の違いが分かる。そう、スピーカーは耳で聞くことができるように空気に振動を与える装置なのだ。その前に「信号」というものがあるらしい。ファクスと同じ驚きだ。
いつまでこんな感じなのかな。きっと、死ぬまでそうなんだろうな。世界って何だろう、お金持ちはいいな、頭のいい人たちはいいな、お金持ちになりたいな、技術を身につけたいな、でもやることは毎日パチンコ。努力なんてしてないに等しい。俺ってだめだな、いい女はやまほどいるのに誰も声かけてくれないな、パチンコで毎日大当たりいっぱい引けたらいいな、もしそうなったらこんなこともあんなこともやりたいな、でも俺ってだめだな、って。
どうしようか。僕の明日をどうしようか。いくつになっても、どうしようか。もしあなたが小学生ならば、嫌なことには立ち向かおう。嫌なことに立ち向かうことが嫌ならば、嫌でないことをしよう。何だろう、たとえばサッカーのクラブに入っていて、レギュラーになれなかったとしよう。レギュラーにはなれないけれど練習してうまくなることが嫌でないならば、たくさん練習しよう。進歩を感じられなくても、それが嫌でないならば、続けよう。そうでないならば、他にもある選択肢をたくさん考えよう。
感情とは何か。日本語で言えば喜怒哀楽。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。君に出会えて心から嬉しく思う。大切な人を傷つけられて怒髪天を衝く。愛する子をなくして悲嘆にくれる。大好きな人と夢の国へ行けるという壮大な期待感。淡々と日常を過ごしていく中で揺れる心。揺れる心は1+1=2をこなす時には生まれない、今となっては。でも1+1=2でさえ、なぜという疑問がわいた途端に、心を揺らし始める。
生きてる価値がないなんて、今さらなのかもしれない。そんな世界はみんなとっくに飛び越えて、生きる意味を毎日の中に見出しているのだろう。生きている価値、生きている意味、なぜそんなことを考えるのだろう。僕は僕のままでいいはずなのに、僕は僕のままではいけないんだということ。自分を実現するために勉強を頑張る人、スポーツを頑張る人、仕事を頑張る人その先にある何かをみんな夢見ている。
窓の外にビルが見える。ビルの上に空がある。今日は晴れの日みたいだ。「小さな窓から見えるこの世界が僕のすべて」と歌ったのは松山千春だったろうか。中学生の時におそらくこの歌詞を聴いたはず。僕という人間と僕が住む世界とその世界にあるすべてのものに対する関心の限界と実現可能な世界と実現不可能な世界との差についていけずに、その頃の僕は生きていた。そこから何も、おそらく変わっていない。人間はいくつの時に完成されるのだろう。
たまに休日の過ごし方を聞かれたりする。朝から文章書いて、ギター弾いて、英語習得のための動画を見て、adobe製品を少しかじって、パチンコに行って、昼飯食べて、掃除して、髪を切りに行って、プールでひとしきり泳いで、映画を観て、晩飯食べて、コインランドリーに行って、ストレッチして寝ました、という回答が欲しいのだろうか。それともプールで若いだろう女性の肌に感心したり、水泳のレッスンを受けている子の頑張りに頬を緩めている僕の心情を聞きたいのだろうか。多分なんでもいい。
映画を観た。翌日、動画を見た。表現者という表現でいいのだろうか、アーティストと呼んだ方がいいのだろうか、彼ら彼女らの訴える力の凄さにいつも圧倒される。なぜそこまで感動を人に与えることができるのだろう。僕の範疇で言えば、スポーツをする人もそう、小説を書く人もそう、歌を唄う人もそう、見るたびにとてつもない感動を与えられるわけではないけれど、時折やってくる嵐に僕の心は大きく揺さぶられる。だから、やめられない。
『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という本に、「真理、実在、存在、論理、知識、必然性、夢、観念」という一節がある。また「神、自由、道徳、帰納、意図等」という一節がある。さらに「社会、歴史、意識、行為、そして人間」という一節がある。これらは僕の関心のおそらく一部を成している。どれも僕によって突き詰められたことはないけれど、いつも漠然と頭の片隅に置いてある、ような気がする。これらの言葉を見るだけで、僕は哲学をしているような気分になれるのだ。
ジャッキーチェンの映画を観た。『RIDE ON』というタイトル。父と娘と馬の絆の物語。あるいは「スタントマンとして一時代を築いた男が、もらい受けた仔馬と食いつないでいたある日、成長した馬を奪われるかもしれないという状況に陥る。法学部の学生に成長していた娘とその恋人とともに困難を乗り切る手立てを考え、スタントマンとして(馬とともに)復活する。愛するものを失くす悲しさと愛するものの大切さを実感する感動の一作」という表現ではどうだろう。
エリは大学生。いつもタクミとつるんでいる。傍目には恋人同士のように映っている。実際問題、キスもするしセックスもする。一緒に住んでいるし、食事も自炊したり外食したり、ほとんどの時を一緒に過ごしている。時間も空間も共有することが多いのだから、お互いのことをよくよく知り合っているはずだ。でもエリはタクミのことをあんまり話したがらないしタクミもエリとのことを見せびらかしたりはしない。
『ねこのガーフィールド』という映画を観た。仲間の大切さと親子の絆を取り戻す作品。あるいは「父ねこに捨てられたと思い込んでいた子ねこは食欲旺盛なたくましいねこに成長する。飼い主と同居いぬとともに自由奔放な生活を送っていたが、ある日父ねこのせいでかなり危険な任務につくことになる。『ミッションインポッシブル』をオマージュしている場面もあるが、最初の退屈さはどこへやら、後半はそのスリルにただ引きずり込まれてしまう一作」という表現ではどうだろう。
生命について語るにはまだ早い。宇宙について語ることも。個人は何事かを思考する。それは言葉で表現される。あるいは行動で。あなたの思考を僕は見ることができない。あくまで言葉を媒介として、理解しているつもりになっている。こんなに身近にいるあなたのことを、僕は何も知らない。単純な話、「浮気をする奴は許せない」という言葉を誰かが言って、言った本人が浮気をしている場合、彼や彼女はどうやって「浮気をする奴は許せない」を証明してみせるのだろう。
谷川俊太郎、萩原朔太郎、三好達治、中原中也、ぱっと思いつく日本の詩人。北原白秋もいるか。60年生きて、これだけ。悲しくないか。本を読んでいるつもりでも、全然知らない。宮沢賢治もいた。まともに詩集として読んだことがあるのは一人としていない。日本語ってなんだ。なぜ詩人は詩人なのだろう。作詞家、たとえば阿久悠なんて素晴らしい。岡本おさみもいる。阿木曜子だって山口百恵でセンセーショナルだった。どうすれば日本語をそんなに操れるのだろう。
山口百恵で思い出した。『秋桜』という楽曲がある。名曲だと思う。あれを作ったのはさだまさしだったか。「薄紅の秋桜が秋の日に」という出だしだったように思う(検索すると「淡紅の秋桜が秋の日の」だった。)。歌って素晴らしい。母への思いを言葉やメロディで表現してくれる。言葉に感動するのかメロディに共鳴するのか、それとも全体の空気振動に影響されるのか、心がただ揺さぶられる。人の心を揺さぶってみたい。でも周りの人たちは皆落ち着いているみたいだ。人間ってなんだろう。
街は明るく華やいでいた。健康的な雰囲気に包まれて、人々が移動している。「これから、どこ行く?」とエリがタクミに言った。「そうだな、どこへ行こうか」とタクミが言った。二人のいるテーブルはカフェの外に置かれており、歩道を行く人波を見ることができた。カップルもいれば一人歩きの人もいる。男もいれば女もいる。腕を組む男女がいれば腕を互いの腰に回している女の子たちもいた。
私は生きている。彼も生きているし彼女も生きている。彼や彼女が幸せそうに見える。彼らの笑い声が私の癇に障る。私の存在は彼らに影響を与えているのだろうか。それとも微動だにしない存在だろうか。私は私の興味関心を惹くものに引き摺られる。隣のレーンで泳いでいる人に引き寄せられるように、私はそちらへそちらへ連れていかれる。疲れる。みんなこんなに疲れているのだろうか。それとも誰もそんなに他人に興味がないのだろうか。私でさえ、勘違いしているのだろうか。
「東北って行ったことある?」とエリが聞いた。「東北?」「そう、東北。東日本大震災があって、メディアでたくさん取り上げられたでしょ。でも、実感わかないし。今どんなになっているか、見てみたいなって」「行ったことはない」「今度の連休、行ってみない?」「そうだな」タクミがそう言う時、気がないのをエリは知っている。だからアイスティーの入っているグラスにあるストローに口をつけ、少しだけ喉に流し込んだ。
幸せであること。戦うということ。逃げるということ。死ぬということ。死なないということ。天国へ行くこと。地獄へ行くこと。奇跡を起こすということ。普通に暮らすということ。妬むということ。持って生まれたものが違うということ。努力するということ。努力しないということ。汗を流すということ。未来を見つめるということ。今を楽しむということ。笑顔を作るということ。笑うということ。生きていればそれだけでいいということ。
今も国語算数理科社会という今日かはあるのだろうか。数学Ⅰと数学Ⅲとの違いが分からない。物理と化学の違いは分かる気がする。世界史と日本史との違いもわかる気がする。勉強して大学へ行って、それでどうなる、という話はよく聞く。いい大学を出ても、と。母親はきっと、いい大学を出てほしいと考えているだろう。でも、大学を出たからといって、それで人生が決まるわけではない。勉強するとどんないいことが待っているのだろう。
情報が多すぎる。情報に潰されてしまいそうだ。賛成のための賛成、反対のための反対。目指すべき場所はどこなのか。一人一人がきっと、答えを持っている。でもその答えを発言するわけにはいかない。だって、叩かれるから。SNSがどうだ、という話になる。昔も出る杭は打たれたし、意見を主張することが美徳とばかりは言えない。みんな、きっと生きるのに必死なのだ。生きるというのは言い過ぎかもしれない。生活するって、大変なんだよ。
観念という言葉がある。日常的な言葉が専門的な言葉として使われると、その定義から出発しなければならなくなる。数学記号も日常で見るもの(例えば+)と日常では見かけないもの(例えば積分記号..これをHTML上に僕は表記できない)とがある。前者は「わかる」気がするけれど、後者は「わからない」と断言できる。それぞれがどのように使用されているかなど理解するための道のりが必要になる。「観念」も同様で「観念論」となると尚更だ。
2024年のシングルヒットチャートの上位一曲をyoutubeとgoogleの組合せで楽しむ。歌詞は一向に入ってこない。視覚的には喧嘩を売っているようにしか見えない。リズムは新しいのか古いのかわからない。さすがに60歳には新しいヒットチャートは難しすぎる。でもこれらが多分、若い世代の喝采を浴びているのだろう。そこから現代のすくすくと育ちゆく世代の匂いを嗅ぎ取ることができるのだろうか。街中で見かける彼らはそんなに挑戦的ではないように見えるのだが。
少しだけ、暖かくなる、二月末。エリとタクミ、そして神様が、闊歩していた。どこを?街中を。時間は?夕暮れ時。空の色は?グレイ。風は?微風。よこしまな欲望を隠そうともせずに歩く男。抱かれることを前提に身繕いする女。もうやめてくれ。何を?視界は閉ざされようとしているけれど見開かれる瞳孔。その奥にある魂。宇宙の果てで叫んでも聞こえるかもしれない静かな慟哭。エリは涙を流した。
何もないということはない。目の前にあるキーボードを叩いているからこの文章が出来上がる。英語ではなく日本語で記述しているのは私の限界、英語でも書けないしフランス語でも書くことはできない。英語という言葉が意味しているものは、今この時にはない。少なくとも空気振動はない。あるのは私の中。それは今はこの時にはない。では英語という言葉は何を指しているのか。対象を探すから言葉は言葉として生きている。そこには英語が存在する。どこに?
youtubeってありがたい、多分。今しがた、肩甲骨はがしの動画を見た。多分これを見て、実践したら柔らかくなるんだろうな、と思う。でも僕の場合、すぐには柔らかくはならない。開脚ができないから動画を見てやろうとしたけれど、数日で結果が出ないので間が空き、結果今もあまり変わらない。考えてみればギターも50年弾いてるけれど、今もって一曲通して弾ける曲はない。実践する人間の問題って大きいよね、って思う。
詩は言葉数が少ないと考えている。俳句は五七五、短歌は五七五七七、散文はどうだろう、エッセイの長さはどれだけあるだろう、数式はどれだけの長さまで人間は理解できるのだろう、夢を見ることと現実を直視することの違いは何だろう、生きていることはわかる気がするけれど、死んでいることはわからない、人間死んだときは生きてるってどういうことだろうとか考えたりするものなのだろうか、昨日はあって明日はないんだろうか、今っていったい何者だ。
瓦ぶきの屋根を最近見かけなくなったような気がする。商店街にいたリヤカーもほぼない。けれども屋台はまだ隆盛を誇っているようだ。何が廃れて何が興隆するのか僕は知らない。働く人たちがこれがいいと判断して街は変化していく。家を変える人は幸せだろうな、と思う。そうではないかもしれない。傍目にはわからない苦労があるのかもしれない。フェラーリに乗っている人は幸せだろうな、と思う。そうではないかもしれない。どうなんだろう。
youtubeを見るようになったのは数年前、芸人さんのyoutubeが最初の頃だったろうか。すでにyoutuberみたいな人はいて人気があったようだが、年齢のせいにすれば、触れる機会は少なかった。それから変遷して今はほぼ野球の誰それ、将棋の誰それみたいな感じでいくつかに落ち着いている。それでも例えば「アフリカ」で検索すればそれなりの応答がある。ただ、興味のないものって、やっぱり見ないよね。
神話と呼ばれるものがある。西暦2025年の日本における現在、僕は神話について何も知らない。おそらく、生命の危機に向き合っていないからだ。それは僕だけだろうか。生命について考える機会は猫が車に轢かれた結果や、蠅を叩くか叩かないか、釣った魚をリリースするか食するか、祖父母の死あるいは妹の死など、少なからずある。それにもかかわらず、神話に辿り着かない。生命について内省しない。風俗嬢は何を見て生きている?
雨が降ってる/君は来ない/僕はひとりうつ向いて歩く/夜だというのに/みんな元気だ/明日はもう来ないかのように/希望を捨てて生きる毎日/だけど今も生きてる明日も生きてる明後日だってきっと来る/明けない夜はないと誰かが言ってた/だけど僕はずっと夜の中に/隠れていたい/君が来ない/震える声で/君が囁く/僕はじっと君の声を聴いている/部屋の中でベッドの上で/愛してる愛してる今までもこれからも
久しぶりに会いたい人に会えた。なんでこんなにドキドキするのだろう。言葉を交わしたわけでなく、目が合って見つめあうということもないのに、どうしてこんなにうれしかったりするのだろう。諦めていただけに、喜びはひとしお、というところだろうか。ほんの数秒の出来事が僕の一日を支えてくれた。ありがとう、と伝えたい。でもそんなこと伝えたら気持ち悪がられるだけなんだろうな、と思う。だって、60男が40年下に恋心って。
生きてる価値がない、という文章を時々書く。それは決まって、パチンコに大負けした時だ。馬鹿は死ななきゃなおらないというのは、今のところ僕には当てはまるみたいだ。パチンコに行かなければいいのに、と思う。12日間、行かなかったんだ。でも、その間に生まれ変わることはなかった。技術を習得しようとしてもすぐに躓き、あてもなくyoutubeを見て、みんな凄いな、という感想を得て、ただそれだけの毎日。
たとえば哲学はずっと、多分高校生の頃から40数年、僕とともにあった。けれどもそれを体系化することはできなかった。そんなに頭が良くないんだよ。あるいはギター、この話も時々するけれど、人に褒められたこともなければ、自分で完璧に弾きこなしたという楽曲も一つもない。でもどちらも、60になるまでなんとなく続いている。運動だって、仕事だって何一つ人より抜きんでているものはない。努力が足りなかったとすれば、それはそうだろう。
エリはベッドに横たわっていた。セックスの後のふわっとした時間とともに。タクミは横で寝息を立てている。タクミの部屋は1Kで、ベッドとテーブル、それは食事をとったり勉強をしたりパソコンを開いたりしているのだけれど、冷蔵庫や食器棚というものがあり、ひとり暮らしとはいえ、やはり窮屈そうだ。タクミの寝顔を見る。いい男なのかどうか、エリにはわからない。でもきっと、嫌いではない。大好きなんだろうか。
感性という言葉がある。その人の感性だとか、感性が豊かである、というようなことを日常的には想像するだろうか。ひょっとすると感性という語は感覚と一致しもするだろうか。はじめから聴覚のない人と現に聴覚がある人との間にはどのような隔たりがあるだろうか。視覚のない人と現に視覚がある人との対立はどこにその原因を求めればよいだろうか。味覚も触覚も嗅覚も、最初からそれらを持ち合わせる人との間にどのような感性の違いがあるだろうか。
夫婦別姓について考えようか。日本の場合、僕の生きてきた時代の範囲では、女性が男性の姓に変更することが多かった。少なからず男性が女性の姓を名乗ることがあっても、養子に入ることが前提だったのではないか。好んで女性の姓を名乗ることはなかったのではないか。それ以前の「家」も絡んでいたのだろう。いや、戸籍の問題なのだろうか。戸籍に入るとか入らないとかそういう問題だろうか。男と女が生きていくためにはどうすればいいか。いや待て、夫婦別姓で何が問題なのだろう。
性犯罪がある。誰がどこで性犯罪を犯すことができるのか。男から女への、女から男へのそれは、おそらく前者が多数を占めるだろうし、メディアでの報じられ方にも同じ傾向がみられるだろう。力の強いものが力の弱いものをなぶりものにする、悲しい現実がそこにはある。色々な階層で繰り広げられているだろうそれは、人間のあるいは動物のあるいは生物のあるいは生命体の現実なのかもしれない。ただ粛々と流れる時間の中で、意思が罪を犯す。
エリは近景にある緑を見つめた。なんて生き生きとしているんだろう、と考えた。この緑の生命力は、赤ん坊に感じるのと同じくらい、強力であるように思われた。夏が近づくにつれて、緑は深く濃くなっていく。少々のことではへこたれない、赤ん坊のことを考えた。熱が出ても、そこから脱出することがいとも簡単であるかのように、けろっとした顔つきで食欲旺盛になる赤ん坊は、生命力の塊であるかのように思われた。
故郷がある。故郷は熊本県にある天草。あまくさ、と読む。今日、天草だったよね、と話を振られた。なぜだか嬉しかった。有り難いと思った。ただ、記憶にあるのは本当に狭い地域だから、ラジオで話題になったのが天草だとしても、僕の知っている天草かどうかはわからない。それでも心が多少なりとも動いた。僕のことを知ってくれていることにか、それとも天草という言葉を発してくれた事に対してなのかわからない。そこは僕の故郷。
自然災害がある。例えば地震。家が崩れ道路が寸断し、電気も途切れているかもしれない。水も入手困難な状況があるかもしれない。そんな事態に直面している地域がある。阪神淡路大震災、東日本大震災、能登の地震、熊本もあったかもしれない。豪雨によるもの、台風によるもの他にもあるかもしれない。そんな時僕は何をしていただろう。おそらくパチンコ屋で生活をかけてお金を捨てていた。それはなぜダメなのだろう、なぜ僕は僕自身を責めるのだろう。
時々、現実でかかわっている人が現れる夢を見る。現実の判断に影響するような夢。ふわっとしている夢を見ることはあまりない、あるいは目覚めたときに忘れているのかもしれない。どちらの夢も僕が想像しようとして意識的に見るものではないような気がする。意識的に夢の内容を作ることができないのは、意識とは無関係に現実世界が動いていることと似ている。パチンコで大勝ちしたいと意識しても、その度に実現したことはない。大勝ちすることはあるし、これからそうなるかもしれないが。
エリの指がティーカップを持ち上げる。暖かい紅茶を少しだけ口に含み喉に流す。静かなカフェに客はまばらで、ほとんどの人がスマートフォンを手に持っている。エリは店内を見まわし、ゆっくりと立ち上がる。さっきまで向かいの席にいたタクミは今はもう店内にさえいない。「これからゼミがあるから」と言って立ち去ったのだ。エリも授業があるのだったが、出席する気分ではなかった。何をする予定もなかったが、支払いを済ませ店を出ていった。
読まない新聞を買う/読んでも意味が分からないから、読まない/でも買ってしまうのはなぜだろう/君は何に無駄遣いするだろうか/それとも無駄な買い物はしないだろうか/生きていてつまらないのは同じことの繰り返し/つまらないことはしたくない/人は言う、効率的にしなさいと/あなたのいう所の効率とは何だろう/生きていて楽しいかい/だから神様非効率的な方法で一気に僕を大金持ちにしてください/そうすれば彼や彼女らの鼻をあかせるから/君こそ生きていて楽しいかい
変化と点。時間と空間。さて。時間を考えると普通に過去があり現在があり未来がある、ように思う。時間が何かを置いておく。考えるのは私ということでいいのだろうか。私は過去の記憶を持ち、未来を想像し、現在を生きている。現在を生きている限りにおいて時間は幅を持っている。そうでなければ思考は存在しないように思う。この文章を書いている現在は、行きつ戻りつしなければ成立しない。私の思考は幅を持っている。..いつの時代の考察だろう。
ずっと夢を見ていた/そっと傍にいてほしいと/願い、祈り、そして執着した/けれどもそれはやはり夢でしかなかった/君は来ないし/誰も来ない/夢と希望はどのようにして生まれたのだろう/神様の奇跡を信じたいという気持ちはどこからやってきたのだろう/現実を逃避してここではないどこかを切望する気持ちは/一人きりの部屋で今日もまた繰り返しの日々が過ぎてゆく/明日はどこへ行こう/どこへ行ったらいいのだろう/絶望と希望だけがそこでせめぎあっている
もう、だめだ。考えることは最低のことだけ。期待して期待して社会に受け入れられないことばかり。生きていてどうするよ。僕に明日はあるのかい。ないだろう。だから、どうしよう。どこへ行こう。こうしてグダグダと文章を書いてるだけ。誰かに読んでほしいと思って書いているけれど、それに共感する人なんていない。どうすればいい。誰に何を話しかければいい。あなたの言葉の意味が僕にはわからない。だからあなたにも、僕の言葉は届かない。
2025年の日本には選挙制度というものがある。県知事選挙があり、僕は棄権した。なぜ棄権したか、理由は単純で、候補者の意思が分からないということと、今日を生きる上でまず不満はないということ。前者も後者もどちらも僕の思慮不足であることは否定しない。候補者の意思を確認できるにもかかわらず確認しなかったこと、不満はないというが誰もが安心して暮らしているかや誰かに特権的な地位が与えられていないかなど調査の必要な事項について見ないふりをしていること。どう見るこの事態を。
昨日、知事選挙に行かなかったと書いた。日付が一日ずれており、本日の知事選挙に行くかどうかが問題となっている。行くかもしれないし行かないかもしれない。結局のところ選挙で投票するだけの知識を僕は持ち合わせていないことは確実なわけで。でも一票は一票でその価値は知識の多寡に左右されることはない。間違った知識で一票を投じても正しい知識で一票を投じるのと同じ価値がある。正しいとは何だろう。誰がそれを決めることができる?
似顔絵を描くのが得意な人がいる。あるいは、絵を描くのが上手な人がいる。面白おかしく画伯と呼ばれる人たちは、とても絵が下手だ。僕もその一人なのだが。それは訓練によってある程度は克服されるかもしれない。好きこそ何とかというのは、訓練(とは言わないかもしれないが)を重ねることでさらに上達する。楽器もそうだし、歌を唄うのだってそうだ。外部にあるものを捉える仕方と内部にあるものを表現する仕方は当然のように別物だけれど。
タクミは空を見上げて、いい天気だな、と思った。日差しが少しだけ眩しく感じた。人ごみの中で視線を正面へ向けなおし、再び歩き始めた。目的があるわけではない。ただ歩いている先には何かが待っているに違いないという確信があった。幸運な出会いなのか何でもない出来事なのかそれは分からなかったけれど、何かが始まるということだけはわかった。通りを歩く人たちは誰もが笑顔で屈託のない日常を送っているだろう。自分もその一人には違いないのだけれど。
僕はいつから一人だったのだろう。そもそも僕は誰なのだろう。この何十年にもわたる疑問は何一つ解決されておらず、その手がかりさえもどこにもない。僕は僕でありそれ以外の何物でもない、という判断すら僕自身の思考の範囲内での結論だからそれが正しいのかどうかもわからない。誰かと話したり何かを見たときに、新たな発見というものがあるように、現在の僕自身の思考の範囲はそれ自体変化し続けるもののようだ。
僕はいつも主観的なものと客観的なものとを区別して思考している、ような気がする。遠くに見えている山並みは客観的に遠くに存在しているのであり、遠くに見えている山並みは僕が認識しているものとして主観的に存在している、と。「遠くに見えている山並み」は主観的な存在でありかつ客観的な存在でもある。この思考はおそらく僕の最初の祖先が思考していたのと変わらないはずだ、と断言できるものだろうか。
主観的と客観的とは何かという問いは、国語辞典を見れば書いてあるのだろう。にもかかわらず、僕が問題にしている理由は何だろう。「遠くに見えている山並み」は主観と客観が一致している。そもそも一致しているという表現もいらない、気がする。人間を特徴づける何かの中には、他の生物にも属するものがある。食べるということ、交尾をするということ。「そこにあるリンゴ」あるいは「そこにいる異性」はそのように捉えられているものとして存在する。「存在」って何だ。
何について語りたいのだろう。「僕はいつから一人だったのだろう」という疑問に答えたいのだ。「僕」「いつ」「一人」「だった」「だろう」と「は」「から」「の」という文字で出来上がっている疑問だ。どんなタイプが好きと聞かれてタイプの定義を持ち出すようなものだから、面倒くさいかもしれない。でも言葉はそういうもので、日常会話を円滑に進めるためには見逃さなければならない文字はたくさんある。あり過ぎるに違いない。一体何が問題なのだ、君は。
端的に言えば、「一人は嫌だ」ということになる。街を歩いていても目が行くのは楽しそうに連れ立って歩いている人、逆に俯いて歩いている人にもそうかもしれない。僕自身は後者で、ほぼほぼ一緒にスタートしてもその人は僕の数メートル前を歩いている。僕の歩くスピードがとても遅いようなのだ、自分ではそうは思わないのだけれど。覇気がないどころか、活気もない、溌溂としていない、そうついこの間久し振りにあった人に言われた、「楽しく生きようよ」と。楽しくって何だ。
「一人は嫌だ」には何が含まれているだろう。普通に暮らしていく中では、なんだかんだと人と関わることなしに生きていくことはできない。生活保護のお金を受け取るのもそうだし、お店で買い物するのもそう、一人で生きているわけではないし一人で生きていくことはできない、2025年の日本では。もしそういう人がいるとしても、僕にはどうしようもできない。彼や彼女は一人で生きているから、一人で生きているのだ、それ以上でも以下でもない。孤独なことと一人で生きていくことは区別して考えなければならない。
慎重に述べなければならない。2025年の日本において家のない人は少なからずいるし、家を出ずに生活している人も少なからずいるから、僕の言っている「一人は嫌だ」には何が含まれるのかそもそも共感を得られるかどうかさえ怪しい。ただ「一人は嫌だ」と考えている人々も少なからずいる。それは生活できないからとか生活を楽しみたいとかいろんな理由があるだろう。その理由を僕は知りたいのだろうか。僕が「一人は嫌だ」と考えている理由を。そんな筈はない気がする。
これらの文章を書いている間に、哲学の本を読んでいる。哲学の本が何を指すのかも定かではない。選ぶ基準としては哲学という言葉がタイトルに入っていたり、認識、存在、真理など何らかのキーワードが僕と本を出会わせ、それを僕は哲学の本と読んでいる。実際、カントやフッサールを大学時代に学んだ身としては、構造主義とかの言葉には惹かれない。だから何が哲学なのかもわからない。ひとつだけ言えることは、ここ一連の流れの出発点となっている「僕はいつから一人だったのだろう」という一文が僕の哲学するすべての理由なのだ。
「僕はいつから一人だったのだろう」なんてことを考える時は、大概、日常生活の何かに困った時だ。お金が必要だったり、保証人が必要だったりする時が多い気がする。統計はとっていないけれど、恐らくそう。つまり僕の悩みはすごく現実的な問題なのだ。だからこんなことを書いていても、普通に生活している人から見ればおそらく「馬鹿じゃないの」ということになるはず(直接的に言われたことはないけれど)。あるいは僕の考えが通らなかった時かもしれない。それから考えると、哲学という言葉を出すこと自体、馬鹿々々しくなる。
僕は考える。何を。目前の事柄に対して。今日はパチンコに勝つかな、とか。何のデータをとることもなく、何となくで座り、お金を注ぎ込み、当たる時もあれば当たらない時もある。そうして隣の台が当たれば、「何で隣ばかり」と考える。馬鹿なんだろうな、と思う。それで生活が破綻したことが何度あったろう。それでもパチンコについて勝つことを考える。こういうのを依存症というのだろうな、と思う。パチンコしない人から見れば「馬鹿じゃないの」ということになる。そうだろうな、と思う。
論理学や微分積分、英語やドイツ語、世界史や化学など知りたいことはたくさんある。やりたいこともたくさんあって、追いつかない。でも僕はパチンコ屋に足を運ぶのだ。なぜか。答えるまでもないのだろう。だってどれも、とてもじゃないけれど5分と持たないのだ。5分して次の課題をやって、やり残しの課題ばかりが残って、中学生の頃に始めたギターも、60歳になっても一曲も通して弾けないという体たらく。馬鹿っているんだよな、と思う。そのくせいい生活がしたいなんて考える、どうすればいい。
どこに行けばいいのかな、ずっと堂々巡りで、休日に話す人もいなくて、暇で暇でしょうがなくて。そういえば同僚に「暇」と聞かれた。仕事している人に暇もないはずだけれど、そうやって聞いてくる人がいるんだな、どうしてなんだろう。締め切りに追われた仕事だけが仕事ではないんだよ、と言いたい。そもそも仕事って何だよ、と考える。協力するようにと言われたけれど、言った人に協力してもらった覚えはない。考えることがいっぱいだな、少し休もうか、お腹もすいてきたし。
なんだか面倒くさい。みんな、何を考えてるんだろう。みんな、どこへ行きたいんだろう。言葉を合わせるのが、そんなに楽しいんだろうか。まあ、毎日パチンコのことしか考えてない僕なんかより、きっとましなんだろう。そうですか、という感じ。呆れているというか、まあ、あなたたちみたいな人がこの現実世界では勝ちとなるのでしょうな。僕自身が、この現実世界での勝ち負けにこだわっている以上、いつでも勝ったり負けたりの繰り返しなのでしょう。淡々と泳ぐ人たちはすごいな、と思う。どうすればそんなに淡々と生きられる。
「空間の統一性」って何のこと。僕の眼前に広がる空間。そこには机があり、テレビがあり、時計がある。この空間の中で僕は暮らしている。それは果てしない宇宙の中のほんの一部。人間(僕)が蟻の世界を理解していないように、宇宙の誰かにとって、僕の存在は理解されてはいないのだろうか。「この広い野原いっぱい咲く花を」と歌ったのは誰だったろうか。森山良子だったろうか。違っていたらごめんなさい。人間の認識能力(あるいは僕の認識能力)はその限界点をどこに持っているのだろう。
本日平日、休日を頂戴する。私用のためではありながら、平日に街を歩くのは心が少しだけ解放された気分になる。どれだけ仕事に縛られているのだろう。そもそも、たとえば土地持ちの人は家賃収入とやらで左団扇なのかもしれない。少なからずいいるんだろうけれど、そんなに多くもないだろう。半分以上の人々はおそらく汗みずくになりながら、日々の暮らしをしているのだ。3人の男の子を抱える家庭でどれだけの収入があれば余裕があるものだろう。みんな、懸命に生きているのだ。
芸術的空間想像ですか。芸術的、空間、想像。字が上手な人がいる。惚れ惚れとする。でも、何が上手なのかはわからない。ある人の筆跡には攻撃性を感じ、ある人の字にはほのぼのとさせられる。ある人の書は見事に綺麗さを纏っており、ある人の書は美しさを纏っている。異性の顔に魅力を感じ、ただただ感心することも少なくない。でも、すべての異性に対し同じ感情を持つことはない。人の顔は、あるいはサイの体躯には神の力を感じることもある。イルカを見ていても美しさを感じる。それが芸術なのか。何が芸術なのか。
空間意識、ですか。僕にも一応空間意識というものはある。遠くにある山並み、近くにあるテレビ、空を飛ぶ鳥、地を這う虫。それらは空間に漂っており、僕の外部にある。外部というのは意識がどうというのではなく、ごく当たり前の存在としてある。では視覚がなければどうだろう。想像でしかないが、皮膚感覚である距離を意識をすることはできるだろう。あるいは自分自身の移動が空間意識を構成しているかもしれない。その空間が物理的という言葉や現実的という言葉に意味を与えているように思える。
何だろうかね、インタビュー記事を読んでわかった気になるけれど、それ以上でも以下でもなくて、読んでいる時間が過ぎると、一人では思い返すこともできない。訓練のたまものと言えば聞こえがいいけれど、つまりは訓練をおろそかにしていると、こういう結果になるという。たとえば記事を読んでその内容について誰かに話したりするならば、その内容をすでに読んでいるときに、おそらく自分の言葉に直して言い換えを行ったりするんではなかろうかと。
目指す国家像、というものがあるのだろうか。2025年の日本に、何が必要なのか。高齢者が続々と増えるという時代に、誰がどう働けばいいのか。働くことで何が得られるのか。高校の無償化が必要なのだろうか。103万円の壁をあげたとて、何が変わるのだろう。手取りが増えることは嬉しいけれど、何のために働いているのか独り身の身勝手な生活を送る60男にとって、そんなことはどうでもいい。あした生活するための安心が欲しいだけなんだ。いや個人的欲望はたくさんあるけれど。
みんなは、生きる場所があるのだろうか。それとも、生きる場所を確保するために戦っているのだろうか。その戦いを続けるために、必要な努力をしているのだろうか。その努力は努力と呼ばれるものではなく、常識というものなのだろうか。常識になじめない人間というものが存在するかもしれない。その人は常識に立ち向かうかもしれない。勝ちあがる人がいるかもしれない。けれども負け続ける人もいるだろう。常識になじめず、戦いに負けた人間は明日、どこへ行けばいいのだろう。
おそらく、小学生低学年レベルの学習を毎日している。それは例えば、水泳で、元々泳げなかったが57歳で練習を始め、もうすぐ3年たつのにバタフライができない。自分ではまあまあかと思うけれど、どの泳法も見た目遅い人より遅くてほぼ50メートル進む間に僕は25メートルがやっと。いやそういえば、小学校入学前らしい子どもたちよりも遅かったのではないか。まあ好きでやっているからいいんだけれども。同様に英語も、まったく上達しない。プログラミングも、デザインも、ピアノも、ギターも。才能のない人っているんだよね。
地球は丸いという。月は同じ面を地球に向けているという。太陽は動いているという。生物は進化しているという。彗星というものがあるという。空は青いという。星はたくさんあるという。ブラックホールという場所があるという。重力というものがあるという。引力というものがあるという。神様がいるという。仏様がいるという。八百万の神々がいるという。日本人は正月、神社に初詣に行くという。宇宙というものがあるという。科学が深化しているという。僕は誰と問う。あなたがそこにいる事実。
タクミは夜道を歩いていた。住宅街のなか、街灯はあったがそれよりマンションや戸建ての灯りが歩行をたやすくしていた。ここはどこだろう、ということも考えていなかった。帰るべき場所への道を淡々と歩いていたつもりが、気が付けば見慣れない景色の中にいた。ん、と思った時、スマートフォンが鳴った。ポケットから取り出して見ると、エリからだった。「どこにいるの」という言葉が第一声だった。責めている雰囲気はなく、ただ聞いているだけのように感じた。「どこだろう、家までもう五分の所にいるはずなのに」とタクミは答えた。
自分の存在価値なんて、自分で決めることではない、のではないか。先日ある集まりに行った。多分だけれど、集まった人たちは普段から交流があり、集まりの目的のために共に行動する機会が少なからずある人々。その集まりの一員ではあるけれど行動を共にしていない僕は、すなわち普段からの交流がない、ということになる。集まった人たちは声をかけてくれるけれど、僕はうまくそれに応えることができない。そんな僕の存在価値はその集まりの中にあるのか。ないだろう。では集まりには参加するな、ということになるのだろうか。
youtubeを見た。三角関数について知りたくて検索して。土木に携わっているであろう人の動画だった。優しい語り口で、分かりやすい説明がされていた。控えめで、とても印象が良い。こんな人もいるんだな、と思う。一方で企画を練って配信にまで辿り着く人たちもいる。頑張っていることを隠す必要がある人もいれば見せる必要がある人もいる。ただ伝えたいことを伝えているだけの人もいるだろう。こうして文章を書いている人もいるけれど、僕は何を伝えたいのだろう。
youtubeを見た。三角関数について知りたくて。言葉が入ってくる人と言葉が入ってこない人がいるというのはどういうことだろう。同じ三角関数についての説明なのに、一方は理解できて他方は理解できない理由。減税します、と誰か政治家が言ったとしよう。ある人のそれは理解しやすいものであるかもしれない。ある人のそれはそうではないかもしれない。けれども言っていることは同じ、減税しますということ。人を騙す力が政治家には必要なんだと改めて思った、という話。
音楽の力って何だろう。アニメではオープニング曲とエンディング曲が用意されている。挿入曲があったりもする。日常を別の形で表現する音楽。ピタリとはまった時、それはある種の感動をもたらす。スポーツであれ学力試験であれ面接であれ、自分を奮い立たせるため或いは気持ちを落ち着かせるためなんかに音楽の力を利用する人も少なからずいる。ボーカルが入っている場合もあれば入っていない場合もあるだろう。洋楽と邦楽では言葉の力も加わるかもしれないし声の力が加わるかもしれない。
高齢者、か。今年で60歳になる。60歳の大人なんて、ほんの少し前までは気にも留めなかった。でも今、自分がもう高齢者の域に達していることに愕然とする。ニュースで60代70代の話題があっても、自分のこととは受け止められない。原因の一つは貯えがないこと。悲しいね。ついこの間まで、吉田拓郎の落陽に出てくる「サイコロころがしあり金なくしフーテン暮しのあのじいさん」に憧れていたのに、気が付けば人様に迷惑をかけるかもしれない、なんて。これから、どうするか。
美味しいケーキが食べたい!そんな思いに駆られる時に思い出してもらえるようなケーキ店を目指して、日々、ケーキ作りに励んでいます。気の置けない仲間と会う時、大好きな人と幸せな時間を過ごす時、愛しくて愛おしい子どもの誕生日を祝いたい時、毎日忙しい日々を過ごして家族のために頑張っている夫や妻を労いたい時、大切に育ててくれた母や父に久し振りに会う時、それとも一週間を頑張った自分へご褒美をあげたい時、日常のいろんな場面で満面の笑みが見たい。そんな思いを込めて。
お掃除終わったぞ!さあ、ティータイムだ。昨日大好きなアーティストの新曲が配信開始された。紅茶はある、時間もある、ないのはケーキ、買いに行くか、どうする。しばし腕組みして考えた。買いに行こう!自転車に乗って、春の風を浴びて、緑を取り戻しつつある風景を横目に緩やかな坂を下ってゆく。(帰りの上り坂のことは考えまい)。ドアを開け大好きなモンブラン。...リビングに紅茶の香りが漂う。美味い!(うまいかおいしいか、どっちだろう)。はじめての音楽に包まれて、柔らかな日差しを浴びながら、幸せなひととき。
「ケーキが食べたい」と彼女が言った。休日の午後、新作の映画を観た帰り道。「どこかお気に入りのお店とかあるの」と彼は言った。「うーん」と彼女。顎に手を当てて右斜め上に流し目を送る仕草は可愛いけれど。「そういえば」と彼はそんな彼女の仕草に気付かないふりをして言った。「この通りをもう五分ほど歩いて、信号を渡って右に入る小道沿いに小さなケーキ店があったような気がするけれど」と。「知ってる、チーズケーキがとっても美味しいんだよ、知ってる」と最後の言葉の語尾を得意そうに上げて彼女が応えた。
いい天気だ。絶好のピクニック日和だ。外に出よう。街を歩こう、緑の公園で寝そべろう。でも僕は部屋にこもってこの文章を書いている。技術もない、人もいない、金もないそんな人間にできることって何があるのだろう、きっと何かがあるのだろうけれど、僕には見つけることができない、だから取りあえずやりたいことだけやっている、自堕落な毎日。いい天気だ、絶好のデート日和だ、街に出よう、美味しいコーヒーとケーキを味わえるお店を探そう、素敵な音楽に出会えるお店に辿り着けたらなおいい。
明日はどこへ行こう、そんなことばかり考える。行く当てもないし生活するためのお金もないのに。こうして誰が読んでも嫌な気分になるだけの文章を書いて日々の暮らしを続けていくことにどんな意味があるのだろう。愛している人もなく、ただ孤立しているだけの僕に、生きる価値なんてあるんだろうか。でも、といつも立ち止まる。親は無条件に子の生きていることを願うのではなかろうかと。人様に迷惑をかけないように、と教えられた気がする。しっかりと自分の足で歩きなさいと教えられた気がする。